こだいらぽんたの読書日記

古典多めの読書日記です。名作映画100選もあります。

ボッカッチョ著『デカメロン』<下>(平川祐弘訳/河出文庫)

デカメロン』も最終巻となる。下巻は第8目から第10日目が収録されている。これで十日物語の100話をすべて読み切ったことになる。

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ボッカッチョ著『デカメロン』<下>(平川祐弘訳/河出文庫

ざっくりとした内容

下巻に入っているのは8日目から10日目までの全30話だ。中でも印象的だった話を3つ挙げたい。

*第10日目第10話

サンルッツォ侯爵の長男グワルティエーリは、「早く結婚しろ!」という周囲の声に対して「結婚すりゃいいんだろ、結婚すりゃ」と、百姓の娘グリゼルダを嫁にもらう。グリゼルダは美しく気立てが良いうえに賢かったので、家臣からも慕われる。グワルティエーリも彼女のことを愛するようになるのだが、「どれくらい俺は彼女に愛されているのかな?」と試してみたくなり、グリゼルダに意地悪ばかりする。最後、幸せになるからいいものの、ちょっと度を超している。

*第8日目第7話

学者のリニエーリは、美しき未亡人エーレナのことが好きになり、振り向いてもらおうと愛を告白する。ところがエーレナには若き恋人がいる。彼女は「わたし、告白されちゃった」と恋人にわざわざ告げ、嫉妬させて喜ぶような女だ。しかも、「大丈夫、私はあなたのものだから」と言いたいがために、極寒の日にリニエーリを呼び出しておきながら待ちぼうけを食らわせ、その姿を恋人と一緒に見物してあざ笑う。

ところがリニエーリだって黙っちゃいない。エーレナへの愛は憎しみへと変わり、彼女に復讐を誓うのである。その復讐たるや、すさまじいものだった。

*第9日目第10話

ピエートロ親父は、ジャンニ司祭から魔法が使えるという話を聞かされる。なんと司祭は馬を人間に、人間を馬に変えられるというのだ。その話を夫から聞かされた妻は、「私を牝馬に変えてもらえば、あんたは馬を使って商売ができて倍も稼げるんじゃないの?」と言い、自分を牝馬に変えてもらいたいと提案する。ピエートロ夫妻の依頼を受けて、ジャンニ司祭は彼女を牝馬に変えることになった。その魔法たるや・・・ものすごくエロい魔法だった。

 

かんたんレビュー

第10日目第10話に関して、訳者の平川氏は注釈で「物語はほとんど数学上のゲームのようであり、それだけにリアリティーを欠く」とか「白ける」とか、けっこう手厳しく批判しているが、相手に意地悪をすることで愛情を確かめようとする大バカ者は意外とこの世にいるのではないだろうか。それが相手に対する虐待になるとも知らずに。

第8日目第7話は、リニエーリのエーレナに対する復讐がすさまじい。エーレナは若い恋人に逃げられ、よりにもよってリニエーリに相談しに行く。学者なら、彼の心を取り戻すいい魔術を知っているのではないかと。そこでリニエーリは、全裸になったエーレナに人里離れた場所にある塔の上に登らせることに成功する。エーレナが策略にはまったと気づいたときには、もう梯子はなかった。夜は明け、太陽は徐々に照り付ける。エーレナの苦しむ様子が生々しい。

頭に被り物は一切ない。それで真っ向から日に照らされた部分はただ単に焼け焦げたばかりか、数え切れない火ぶくれが生じ、いたるところで皮膚が裂け始めた。熟睡していた女はその日焼けの痛みに目が覚めた。(中略)加えるに風がぱたりと凪いでしまった。あたり一面、蜂や虻がぶんぶん飛び交っている。その蜂や虻が罅(ひび)割れて肉が露出したところに止まって猛烈に螫(さ)した。螫されるたびに鉄串を刺し込まれるような痛さだ。(下巻・P112-113)

つくづく思う。人の愛情は試してはいけない。思わせぶりな態度に翻弄された方は相手を恨むだけだ。その時の復讐のエネルギーたるや、恐ろしいものがある。

 

第9日目第10日の話はとびきりいやらしかったので、ここに引用する。ジャンニ司祭はピエートロの妻を牝馬にする魔法をかける。司祭は彼女に裸になるよう命じると、ピエートロの目の前で彼女に「尻尾をつける」のである。

そして最後に、尻尾を作る以外はもはやなにもし残していないと見るや、やにわに下着をさっとまくりあげ、それでもって人間の種を植えつける杙(くい)を掴むや、すばやく女の畝(うね)の溝に打ち込んだ。そこは杙を打ち込むように出来ていた。そして叫んだ、

「これが牝馬の美しい尻尾となるように」

ピエートロ親父はそれまで注意深く逐一観察してきたが、この最後の杙打ちばかりはあまりにもとんでもないことであったから、

「おお、ジャンニさん、そんな尻尾はいらないぞ。いらないぞ」

と声を荒らげた。だがそう叫んだ時には、あらゆる植物が根を張るために必要な液体ははやほとばしり出ていた。(下巻・P288)

 

夫が見ている前で堂々とヤるか?官能小説もびっくりの露骨さだ。14世紀に書かれたとは思えないほど生々しい描写だが、『デカメロン』のエッチな話はどれもしっかりとイヤらしいし、残酷な話はどれもしっかりと残酷だ。

10人の若者たちがペストから逃れようと郊外に避難してから、15日が経過していた。あまりに長逗留すると世間に非難がましいことを言われるかもしれない。ということで、彼らはフィレンツェに帰ることになった。

命が脅かされているときに、彼らはユーモアの力でこの現状を乗り切ろうとした。もし、私ならこんな時どんな物語を語るだろうか?今から考えておこう。

 

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昭和史への興味をかき立ててくれた一冊。/山内昌之・佐藤優著『大日本史』(文春新書)

山内昌之氏による「まえがき」で初めて知ったことがふたつある。一つ目は、今の高校では世界史が必修科目で日本史が選択科目だということ。二つ目は、2022年度から高校に新必修科目として「歴史総合」という、世界史と日本史を融合させた科目が登場するということだ。ダイナミックで面白そうな科目だ。とはいえ、受験対策としては何をやったらいいんだか大変そうだが。

この本では「世界史と日本史の融合」を意識した近現代史が語られている。中でも最も面白かったのは昭和史だ。昭和史に関しては、戦争だのテロだの暗いイメージがつきまとい興味が持てなかったのだが、この本で考えを改めた。昭和史は面白い。よくも今まで無関心でいられたものだ、と我ながらあきれてしまう。

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山内昌之佐藤優著『大日本史』(文春新書)

私が興味をそそられた昭和史について、個人的に「へえー」と思ったことを三つ挙げたい。

個人的に「へえー」と思った事柄

日中戦争に関しては、陸軍が暴走して始めたとは言い切れない!?

*対米戦争前夜。外交努力をすべきだという昭和天皇vs戦争ありきの陸軍参謀総長のすさまじいやりとりとは。

*8月15日の玉音放送を阻止すべく、陸軍の一部将校が起こしたクーデター未遂事件。

 

かんたんレビュー

「陸軍が暴走して、日本は悲惨な戦争に突き進んだ」という話はよく聞くが、日中戦争に関しては「オレたちの仮想敵国はソ連なんだから、中国なんかと戦争している場合じゃないだろ」と陸軍の一部が考えていたというのは初耳だ。しかもあの石原莞爾が、盧溝橋事件後、戦線不拡大、和平路線を主張していたというから驚きだ。陸軍参謀本部のトップである多田駿も和平交渉継続を訴える。逆に「中国と戦争しよう!」とノリノリだったのが、広田弘毅外務大臣。米内光政海軍大臣も広田を後押しし、外務大臣に従えと多田に圧力をかけている。第二次世界大戦で、日本はアメリカに負けたというより中国に負けた。だから、これは日本にとってかなり大きな出来事だったといえる。 

 

1940年時点、日本の石油輸入依存度は92%であり、その81%はアメリカに依存していた。どう見たって絶対に戦争してはいけない相手だ。こんな相手とどうして戦争してしまったのだろう。

開戦を目前にして、昭和天皇と杉山参謀総長とのすさまじいやりとりがあったという話も初めて知った。「もし戦争になったら、南方作戦はどのくらいで片付くのか」と聞く昭和天皇に、「だいたい5ヶ月くらいで片付きます」と杉山。だが、昭和天皇は納得しない。「支那事変だって、2ヶ月で終わるといっておきながら、4年たっても終わっていないじゃないか」と切り返す。「支那は奥地が広いんで、作戦がうまくいかなかったんですよ」と言い訳する杉山に、「じゃあ、太平洋はもっと広いじゃないか。5ヵ月で片付くってどういうことだ」と昭和天皇。これはすごい。

私は今までずっと、昭和天皇は戦争にノリノリだったのかと思っていた。ところがそうではなかった。昭和天皇は外交で解決できるものなら解決したいと考えていたのだ。それだけに、このやりとりは悲劇的だ。

 

1945年8月15日の「玉音放送」。この前日である14日夜から15日未明にかけて、徹底抗戦を唱える陸軍の一部青年将校たちが、玉音放送を阻止すべくクーデターを企てる。彼らは近衛師団の歩兵連隊を動かし、宮城の占拠に至る。しかし、阿南陸軍大臣が15日の早朝、陸軍官邸で割腹自殺をしたとの報が入り、青年将校たちの反乱も収束していく。クーデターの首謀者たちは自刃。その後玉音放送が流れるという、まるで小説のようなドラマがあった。こんな終戦の迎え方をしていたとは、つゆほども知らなかった。

 

これ以外にも「へえー」はたくさんある。日露戦争を勝利に導いてくれた日英同盟だが、あれは破棄する必要がなかったそうだ。破棄する必要がないならしなければよかったのに、もったいない!

また、アメリカと戦争をしないオプションもあったし、たとえ開戦したとしても最小限の犠牲でなんとか和平に持っていくこともできたという。アメリカが無理難題を突き付けてきた「ハル・ノート」に対しても、もう少し賢い対処方法があったらしい。歴史の流れには逆らえないものかと思いきや、案外いろんな選択肢があったのだ。山内氏の話も佐藤氏の話もわかりやすい。なぜ失敗したのか、失敗を避けるためにどういう手段を取るべきだったのか、具体的に教えてくれる。

歴史はああすりゃよかった、こうすりゃよかったのオンパレードだ。なんだかもどかしい気もするが、過去の出来事から失敗の例を学ぶことで、今に生かせることもある。とにかく、戦争だけは勘弁だ。

 

大日本史』は幕末から昭和史までを扱っているが、ジェットコースターに乗っているかのような感覚で本書を読んだ。特に昭和史には初めて出会ったような気分で読んだ。読んでよかった。

 

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ボッカッチョ著『デカメロン』<中>(平川祐弘訳/河出文庫)

デカメロン』はペストが蔓延していた14世紀のイタリア・フィレンツェにおいて、10人の若き男女が郊外へ避難し、そこで代わる代わるみんなを楽しませる物語を語っていく話だ。中巻には第4日から第7日までの話が載っている。

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ボッカッチョ著『デカメロン』<中>(平川祐弘訳/河出文庫

ざっくりした内容

毎日、お題に沿ってひとりひとりが物語を語る。その中でも印象的なものをひとつ挙げたい。中巻の表紙になっているのはボッティチェリの絵画「ナスタージョ・デリ・オネスティの物語」だ。この絵は『デカメロン』第5日第8話が元ネタになっている。

*ナスタージョは自分よりも位の高い貴族の娘を熱愛するが、娘の方は洟(はな)にもひっかけない。失意のナスタージョが松林を散歩していると、全裸の女が犬に追いかけられている。後ろから騎士が女に追いつき、女を虐殺。なんだこれは?

*この騎士と女は地獄に落ちた亡霊だ。生前、騎士は女に恋心を抱いたが、女はつれない。ついに騎士は自殺してしまう。女は騎士が死んだことを喜び過ぎて死んでしまう。ふたりは地獄に落ち、毎週金曜日に同じ場所同じ時間に虐殺ショーを繰り広げるという罰を受けたのだった。

*ナスタージョはうまく娘と娘の親族を誘い、松林で宴会を開く。そこで彼らが目にしたのは、逃げまどう全裸の女と、女を虐殺する騎士の姿だった。娘は自分の身にも同じことが起こることを恐れ、ナスタージョと結婚する。

 

かんたんレビュー

第5日第8日の話はこわい。毎週金曜日、騎士が犬で全裸の女を追い立て虐殺するという話もおそろしいが、その描写そのものがグロい。

女は二頭の犬に咬みつかれて動くこともできない。跪いて「お慈悲を」と繰り返し叫んでいる。その女の胸に男は全力を振り絞ってやっと刀を突き刺した。刃は体を貫いて背中に出た。この一撃を食らうや女はなお泣き叫びながらうつぶせに倒れた。騎士は脇差の短刀を手に取るや、女の腰を引き裂いた。腹から心臓その他の内臓を取り出すと、二頭の犬にそれを投げ与えた。餓えた犬はただちにそれをがつがつと貪り食った。(中巻・P240-241)

娘はナスタージョと結婚するが、別に彼を愛しているわけではない。自分を熱愛している男につれなくすることで地獄落ちになるのではと、それが恐ろしくて仕方なくナスタージョを受け入れたのだ。そんなのでいいのか?どうも納得いかないが仕方がない。

 

グロい話は他にも出てくる。夫が妻の浮気を知り、妻の愛人を殺して心臓を料理させ、妻に食べさせる話がある。娘の結婚に反対する父親が娘の恋人を殺し、彼の心臓を器に入れて娘の前に差し出す話もある。ところが、愛人の心臓を食べた妻も、恋人の心臓を差し出された娘も平然としている。「ああ、やっぱりこうなったか」と運命を受け入れて、どちらも自害して果てるのだ。ペストが蔓延し、死は身近なものになっているからこそ、この程度(?)のグロさでは動じないということなのか。

ほかにも、とんでもなく嫉妬深い夫やらDV夫やらも登場する。そのたび、妻は頓智をめぐらせて夫を痛い目にあわせ、そのうえ愛人を作っていい思いをしている。意外にも中世の女性たちが強かったことも興味深い。

(下巻につづく)

 

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見ておいて損はない名作映画100選の6作目。映画:流れる

「見ておいて損はない名作映画100選」の6作目は日本映画から。

 

邦画というとどうしても黒澤明小津安二郎の名が挙げられるが、名画100選の選者(夫のこと)が「日本映画を代表する名監督といえば、黒澤でもなく小津でもなく、まぎれもなく成瀬巳喜男である」と力説するので、お勧めに従って見ることにした。

私はもともと、この映画の原作である幸田文著『流れる』を読んでいた。しかし、原作よりも映画の方が私ははるかに好きだ。今回のレビューは、原作と映画の違いに焦点を当てながら進めたい。

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流れる
(1956/日本)
監督:成瀬巳喜男
出演:田中絹代山田五十鈴高峰秀子杉村春子岡田茉莉子

 

ざっくりとした内容

*舞台は没落しかかった柳橋芸者置屋「つたの家」だ。未亡人の梨花は、ここに女中として住み込むことになった。置屋の住人は、女主人のおつた。おつたの娘の勝代。おつたの妹の米子、米子の娘の不二子の4人だ。染香となな子のふたりは、近くのアパートから通いでやってくる芸者だ。ある日、勝代と反りが合わない芸者のなみ江が突然行方不明になってしまった。なみ江よ、どこへ行った?

*事件は千葉県鋸山から、いかついオヤジが怒鳴り込んできたことから始まった。なみ江の叔父だと名乗るこのオヤジは、少年保護法だか売春法違反で「つたの家」を脅しあげ、金を出させようという魂胆だ。「なみ江をこき使いやがって、カネ払え!」この騒ぎはついに警察沙汰となる。いったいどうなる!?

*「つたの家」を取り巻く妖怪おばさんたちのキャラも濃い。おつたの姉のおとよは金貸しで、おつたや染香にめちゃくちゃお金を貸している。料亭「水野」の女将は、おつたが信頼している姉御だ。もともと借金で首がまわらないうえに、鋸山事件で金策に困り切ったおつたは、「水野」の女将に「つたの家」を買ってもらおうとするが・・・。

 

かんたんレビュー

映画では幸田文の小説『流れる』の台詞をそのまま使っている場面が多いので、原作に忠実に作られているかのように見える。だが、この映画は小説とは全く違った作品だ。原作の梨花は教養豊かで気性が強い。彼女の視点から芸者置屋の様子が語られるのだが、女主人や置屋に出入りする芸者たちに対する人物批評が容赦なさすぎて、「いやいや、そこまで言わなくても」と、読んでいるこちらまでもが打ちのめされてしまいそうになる。

ところが、映画の梨花田中絹代)は原作とは全く違う人物像だ。女中という職業を真正面から受け入れ、たおやかな所作で家事のひとつひとつをていねいに、そして優雅にこなしてしまう根っからの職業人なのだ。くろうとの世界にしろうとが入りこんだことでとまどいはするけれど、すべてをふんわりと受け入れてしまう潔さがある。「よろしくお願いいたします」という田中絹代のお辞儀にはほれぼれとしてしまう。こんな美しいお辞儀は見たことがない。佇まいだけで観客を魅了するところはさすがだ。

 

かっこいいといえば、女主人のおつた(山田五十鈴)もかっこいい。芸者置屋の「つたの家」は没落の一途をたどっている。近所のお店も「支払いがたまってますから・・・」と商品を売るのをためらうほど、生活に困っている。それなのに、おつたにはぎすぎすしたところがない。無駄に強がっているところもなく、どこか毅然としているのだ。

鋸山のオヤジが怒鳴り込んできたときも、オヤジ相手にまるでお座敷をつとめあげているような振る舞いをする。鋸山は「なみ江をこき使いやがって!少年保護法違反だ、カネ払え!」と大声で脅しあげるクレーマーだ。そんな困った人相手でも、まあまあとなだめながら話を聞き、お酒やお寿司を勧め、宿まで用意してやる。落ちぶれていてもプロの芸者なのだ。

「水野」の女将の口利きで、おつたがかつての旦那(パトロン)をお座敷で待つシーンも印象深い。旦那との再会が嬉しくて、おつたが鼻歌を歌いながらお風呂に入ったり、目の覚めるような美しい着物を着て浮き浮きしているシーンは可愛くて仕方がない。結局は旦那はお座敷に来ることはなかった。その時の落胆ぶりも切ない。

ちなみに、原作にこの場面はない。だが、このエピソードを挿入したことで、おつたという人物の厚みが増している。小説ではおつたの「弱さ」ばかりが強調され、可愛らしさを持つ人間として描かれることはなかった。おつたという芸者をここまで魅力ある人物に作り上げた監督と脚本家の腕には舌を巻く。

 

おつたの娘、勝代(高峰秀子)もいいキャラクターに仕上がっている。彼女は半年ほど芸者としてお披露目したものの、接客業が性に合わずすぐにやめてしまった。しかし金策に困っている母親を放っておくことはできず、職業安定所に行き、手に職をつけようとミシンを踏み始める。母親とふたり、食べていくだけのものは自分で稼ぎたい。かなりのしっかり者である。

一方、小説の勝代はブスで無趣味で無教養でどうしようもない人間に描かれている。「くろうとに生まれたくせにしろうとみたいに育っているんだから、からだは半分々々に色が違ってるといった感じなの」という台詞は、原作そのままだ。だが、小説を読んだときは、この台詞の味わいに全然気が付かなかった。なぜなら原作では、梨花が「勝代みたいなブスがこんなこと言っても心に刺さらない。見たくれって大事だなあ」と身も蓋もないことを言っているからだ。

 

ちなみに、この映画の台詞のほとんどは原作のままである。それなのに、映画と小説が全く違う世界なのはどういうわけだろう。原作の台詞をそのまま使いながら、原作の世界を脱構築して、成瀬監督自身の世界を作り上げている。猫の「ポンコ」も、映画ではいい味を出している。まるまる太ったポンコは一瞬行方不明になるが、すぐに見つけ出される。「ポンコ、いましたよ」と、なな子(岡田茉莉子)に座敷に無造作に放り投げられている場面はどこかユーモラスだ。原作では、米子が「あんた、ポンコを外に出したでしょ。探してきて」と梨花を責めている。梨花は「なんだ、コイツ」とむかっ腹を立てている。猫の存在さえも、映画と小説では違ったものになっているのだ。そこが興味深い。

 

最後のおつたと染香(杉村春子)の三味線のコラボは圧巻だ。そこに、勝代が踏む足踏みミシンの音がシンクロする。「つたの家」が静かに滅びてゆくさまは、まさに「流れる」というタイトルそのものだ。川の水は所々で頑固にとどまろうとするが、結局は流れていく。滔々と流れる隅田川の流れ。真言宗の太鼓の響き。今では見ることのできない柳橋の古い町並み。滅びゆくものを惜しむ気持ちがぐっと胸に迫ってくる。

 

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野島博之著『三行で完全にわかる日本史』(集英社)

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野島博之著『三行で完全にわかる日本史』(集英社

「これさえ読めば日本史のアウトラインはわかる。暗記前にこの一冊を仕上げておけば・・・」という初学者用の本は多い。ところが「あれもこれも」と盛り込みすぎるのか、肝心のアウトラインがぼやけている本も多い。

ところが、この本は輪郭がくっきりしている。三行解説のあとの「もう少しだけ詳しく」という解説の内容も、もともと日本史に興味がある人に楽しめるようになっている。わかりやすいが、レベルが低いわけではない。

ところで、三行ってなんだ?と思われるかもしれないが、本当に三行なのだ。
たとえば、「ワシントン会議」の項。三行解説はこうだ。


ワシントン会議

第一次大戦が超悲惨で世界は「戦争ヤダ!」的空気。
でも日本は大儲けしたので周りの国と温度差が。
日本は軍縮会議に出て協調はしたけど、不満顔・・・。(P163)


ワシントン会議第一次世界大戦後、アメリカ大統領ハーディングの提唱で行われた軍縮会議だ。 900万人も死者を出した世界大戦だが、主戦場はヨーロッパにすぎず、日本が総力戦で戦ったわけではない。むしろ日本は、他国が殴り合っている隙に中国に進出したり、ヨーロッパへの輸出が増えたりでおいしい思いをしている。世界と日本に軍縮に対する温度差があったことは、この時代を知るうえでかなり重要だ。こうした「時代を知るうえでのキモ」がピンポイントでわかるようになっている。


「戦争に勝ったら儲かるんだもん」と完全にギャンブル中毒者みたいになっている日本と「戦争という名のギャンブルは勘弁」と思っている世界との対比の仕方が笑える。苦手な人が多いであろう明治・大正・昭和史も、すんなり頭に入ってくるから不思議だ。
ほかにも「関ケ原の戦い」は豊臣vs徳川の戦いではなく、豊臣家内の政権抗争だったとか、「第二次世界大戦」で日本はアメリカに負けたのではなく中国に負けたのだとか、目からうろこの知識が多い。なんといっても、読み物として面白いのがいい。

 

ところで、三行になにかをまとめるのは要約力がいる。

「三行で完全にわかる『赤と黒』」(素晴らしい小説だが、さて、まとめられるか?)

「三行で完全にわかる『ゾンビ』」(名画を三行で!ホラーならいけるか?)

「三行で完全にわかる『平昌オリンピック』」(書き手のセンスが問われそうだ)

こんな練習をしていると、文章力と要約力が同時に上がるかもしれない。試してみよう。

 

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見ておいて損はない名作映画100選の5作目。映画:子猫をお願い

「見ておいて損はない名作映画100選」の5作目は韓国映画だ。

 いい映画とは「見る人によってさまざまな解釈が成り立つこと」「見るたびにさまざまな発見があること」だと思う。この映画はまさにそういう映画だ。商業高校で仲良しだった5人組の女子高生たちが、卒業後それぞれの道を歩いていく。しかし順風満帆な社会人生活を送っている人間は誰もいない。淋しくなって連絡を取り合い、酒を飲んでバカ騒ぎをするものの、なにかしっくりこない。無邪気にじゃれあっていた高校時代とは違う。そこがなんとも切ない。

 

5作目。

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子猫をお願い
(2001/韓国)
監督:チョン・ジェウン
出演:ペ・ドゥナ/イ・ヨウォン/オク・ジオン

ざっくりとした登場人物紹介

*5人の登場人物を紹介する。
ヒジュ:5人の中で就職に成功したのは彼女だけだ。しかし、親のコネで大企業に入ったものの、仕事はお茶くみやコピー取りなどの雑用係だ。彼女の上昇志向はかなり激しいが、それも猛烈なコンプレックスの裏返しであり、「価値のない人間」だと思われることを何よりも恐れている。(最後、彼女自身が同僚に白状するシーンがある。)


ジヨン:経済状況が一番厳しいのがジヨンだ。今にも天井が崩れ落ちそうなボロボロの家で、祖父母と暮らしている。両親は他界。前の会社では給料未払いのままリストラされ、就職の面接では両親がいないことを理由に断られ(「保証人は両親じゃないと」と言われている)、結局仁川空港の食堂で働いている。本当はテキスタイルデザインの勉強をするため留学したいのだが、経済状況が許さない。

 

テヒ:高校卒業後、父親の経営するサウナの手伝いをしている。給料は一銭ももらっていない。父親は「男はエラいのだ!」といった旧態依然とした態度を取る人間であり、「男」である弟の方しか向いてしゃべらない。そんな態度が伝染したのか、弟もだんだんテヒに対して尊大な態度を取るようになる。テヒはそんな家の中で息苦しさを感じ、「ここではないどこかへ行きたい」という気持ちをいつも抱いている。

 

ピリュとオンジュ:ふたりは中国系韓国人の双子だ。手作りのアクセサリーを露店で売って日銭を稼ぐ日々を送っている。中国に母親が住んでいるようだが、祖父とは絶縁状態らしく、実の孫であるふたりすら「わしには娘などおらん(だから孫もいるはずがない)」と、家の中に入れようとはしない。いったい何があったのか、映画の中からは読み取れない。ふたりでタッグを組んで生きているので、5人の中では一番安定感があるように見える。

 

ざっくりとした内容

*なんといっても、ヒジュとジヨンの関係に注目だ。オープニングでは肩を組んで登場するほど、ひときわ仲の良かったふたり。卒業後、このふたりの関係はさまざまなことが重なってギクシャクしてしまう。このふたりの関係こそ、この映画のキモとなっている。

*狭い路地を通り抜けた先に、ボロボロの家が立ち並んでいる地域がある。ジヨンはここに住んでいる。今にも天井が抜けそうで危ないので、何度も大家に掛け合うが相手にしてもらえない。ある日、ついに家が倒壊してしまい、押しつぶされて祖父母は亡くなってしまう。ショックのせいか、何を尋ねられても口をきこうとしないジヨン。そんな彼女は捜査に非協力的で反抗的だとされ、「分類審査院」(少年鑑別所のようなところ)に送られてしまう。

*ジヨンに面会を求めたテヒ。「ここを出ても行くところがない」というジヨンのことばに彼女はハッと目を見開く。どこにも居場所がないのはテヒも同じなのだ。数日後。分類審査院を出たジヨンを待っていたのは、家出したばかりのテヒの姿だった。「あんたとならうまくやれると思って」。

ラストシーン。飛行場の電光掲示板を見つめた後、出発ゲートに向かって踵をかえす二人の姿で幕は閉じる。

 

かんたんレビュー

 「ざっくりとした内容」のところにも書いたが、この映画の一番のキモはヒジュとジヨンの人間関係だ。ひときわ仲のよかったふたりが、どんどんすれ違っていく。なぜ、すれ違いが生じてしまったのだろう。

ジヨンはテキスタイルデザインを独学で学び、けっこういい作品を作っている。彼女は子猫をヒジュの誕生日に贈るが、本当は子猫を入れた箱の方に注目してほしかったはずだ。美しいテキスタイルの施された箱。相当の手間ひまがかかっただろう。だがヒジュはその価値に気づかない。「すごいね、これ」と箱の価値を認めたのはテヒだけだ。

ジヨンはかなり厳しい経済状況の中で生きている。給料未払いのままリストラされてしまい、新しい就職口もなかなか見つからない。「テキスタイルの勉強をするために留学したい」と言うジヨンに「そのためにはおカネ貯めなくちゃ。仕事紹介しようか?」と軽く返すヒジュ。悪意はない。しかしその言葉をジヨンは、上から目線の無神経な言葉だと捕らえてしまう。

しかし、仕事は欲しい。後日、ジヨンはいきなり会社にいるヒジュに「近くまで来た」と電話する。喫茶店でヒジュを待つジヨン。しかしヒジュも忙しい。一時間後、ヒジュはやっと喫茶店に行くのだが、そこにジヨンの姿はなかった。急いでジヨンの携帯に電話するヒジュ。待ちくたびれて、ジヨンはへそを曲げていた。「いきなり来るなんて何かあったの?」とヒジュはいぶかしむが、「別に。仕事頑張ってね」とそっけなく返すジヨン。彼女は仕事がほしい、と正直に言うことができない。一方、ヒジュはジヨンの切羽詰まった状況に気づかない。この「事件」がふたりの溝を決定的なものにする。

 

このふたりにはどちらも心の余裕がない。自分のことで手一杯で相手のことなんか考えていられないのだ。おカネがなくて生活に困っているジヨンの状況は比較的わかりやすい。しかし映画の観客には「神の目線」が与えられているので、ヒジュの置かれている状況も読み解くことができる。

ヒジュの両親は離婚協議中であり(映画の途中で離婚が成立するが)、映画の冒頭のところですさまじい夫婦喧嘩が行われていることを暗示している場面がある。家庭に居場所はなく、ジヨンにもらった子猫を飼う余裕などない。仁川からソウルに引っ越ししたのは、単なる上昇志向からだけではないだろう。

それでは職場ではどうか。彼女は親のコネで大企業に勤めたものの、コピー取りやお茶くみなどの雑用係であり、便利屋としていいように使われているにすぎない。しかし、自分を「価値のない人間」だとは認めたくないので、彼氏にも友達にも偉ぶった態度を見せたがる。その上昇志向が実はコンプレックスからきているのだと、自分自身でわかっているところがつらい。ヒジュは家庭でも職場でもいっぱいいっぱいなのだ。そんな状態で、他人のことはまず考えられないだろう。

 

余裕のないヒジュにジヨンの気持ちはわからない。生活することに必死になっているジヨンにもヒジュの気持ちはわからない。このふたりの人間関係を読み取っていくと、この映画の良さがわかる。

「分類審査院」に送られてしまったジヨンを心配して、テヒは会いに行こうとヒジュを誘う。ヒジュは会いに行こうとしない。ジヨンとは遠く隔たってしまったし、今さらかけることばもないからだろう。だが、ヒジュのデスクには高校時代の5人の写真がピンでとめられている。彼女にとって、まぎれもなく光の当たる場所とはここにしかなかったのだ。ヒジュが指先で写真をそっとなでるシーンは印象的だ。

 

ところで、この映画では日本と韓国のちょっとした違いにも驚かされた。その辺のことは『こだいらぽんたの「基礎学力」勉強日記』にまとめたので、合わせてのぞいていただければと思う。

  

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世界近代文学50選の2作目。(2/2)デフォー著『ロビンソン・クルーソー』<下>(平井正穂著/岩波文庫)

世界近代文学50選の2作目。ほとんど読まれていないといわれている『ロビンソン・クルーソー』の下巻である。

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デフォー著『ロビンソン・クルーソー』<下>(平井正穂著/岩波文庫

ざっくりとした内容

*妻の死をきっかけに、ロビンソン・クルーソーは再び旅に出る。なんと、御年61歳だ。甥が船長を務める貿易船に乗せてもらい、まず向かったのは、かつて35年間住んでいた無人島。今では漂流民のスペイン人とイギリス人が住んでいる。彼らの数も増え、60~70人にもなっていた!

クルーソー一行は喜望峰を経てマダガスカル島に寄港する。ここで大事件発生。船員のひとりが現地の娘を森に連れ込んでレイプしたため、島民たちはこの男をさらって処刑してしまう。ところが今度は他の船員たちが報復に出て、島民たちを大虐殺してしまうのだ。ロビンソン・クルーソーは彼らの行動をなじるが、船員たちは憤慨する。そして、ロビンソン・クルーソーペルシャ湾(アラビア側か?)で船から無理やり降ろされてしまうのだった。クルーソーは単独でロンドンに向かうことになる。

ロビンソン・クルーソーは共同経営者を見つけ、一緒に船を買う。そして、東南アジア貿易で大儲けするのだ!さんざん儲けた後、シナで船を手放すことにし、そこからはほぼ陸路でロンドンに向かう。旅の途中でも抜け目なく商品を買ったり売りさばいたりして、さらに大金持ちに。商売で大成功したロビンソン・クルーソーは、イギリスに帰り着いたとき、すでに72歳になっていた。ここでクルーソーの大冒険は幕を閉じるのである。

 

かんたんレビュー

世界的に有名なロビンソン・クルーソー無人島生活は、『ロビンソン・クルーソー』上巻に書かれている物語だ。無人島から生還したロビンソン・クルーソーが妻の死をきっかけに新たな旅にでる続編はほとんど読まれていないらしい。

それでは続編はどのような話か?一言でいうと、「ショッキングな事件や記述が多い」いうことに尽きる。

 

舞台は17世紀だ。この頃のイギリス人が、我々日本人を含めた「未開の地に住む蛮人」をどのように見ていたかわかる。異教を信じ、偶像を拝む野蛮な人間たちという軽蔑のまなざしだ。一番驚いたのは、ロビンソン・クルーソーがある韃靼人の村で「チャム・チ・サラング」という名の人形が神様として信仰されていることに激昂し、村人たちを縛り上げ、彼らの目の前で人形に火をつけるという蛮行に及ぶシーンだ。偶像崇拝キリスト教徒にとって、もっとも野蛮な行為だ。だから「ここの村を始末すべきだ」という短絡的な結論に至る。いったいこれは何なのか?

村人たちはクルーソーに害を及ぼしたわけではない。ただ彼らの神様を拝んでいただけなのだ。野蛮なのはどちらか。クルーソーにいわせれば、ベトナムあたりの民族は魚や油などの粗末な物質を取引するだけの未開で野蛮な連中だし、中国は賢明な学者ですら天体の運行について何一つ知らない(本当だろうか?)。万里の長城もたいしたことない。

台湾だけは、公正で厳正な人々の住む素晴らしい場所として描かれている。それもそのはず、台湾は1624年から38年間にわたって、オランダに征服されていたからだ。「オランダの宣教師がいい教育をしているからだろう」とクルーソーは納得する。キリスト教徒でなければ人間にあらず、なのだ。

孤高の無人島生活を経て、ロビンソン・クルーソーは神と出会っている。(クルーソー清教徒、つまりプロテスタントだ。)何もない無人島で、神と真剣に向かい合ったという体験がもたらした感動は実によくわかる。だが、キリスト教を「唯一の正義」として他の民族に押し付けてはいけない。キリスト教はそんな偏狭な宗教ではないはずだ。クルーソーよ、お前の気持ちの狭さを知ったらキリストが泣くぞ。

 

マダガスカル島での大虐殺事件も血なまぐさい。クルーソーの船に乗っていた船員のひとりが島の娘をレイプする。もちろん島では大騒ぎとなり、レイプ犯は島民たちによって連れ去られ、咽喉を切って殺されてしまう。木から無残に吊るされている仲間を見つけた他の船員たちは、怒りにかられ、島民を一人残らず殺戮することを誓うのである。彼らはまず、村に火を放つ。どの家も軽くて燃えやすく、あっという間に火は燃え広がる。

それに、火事に引きつづき土人を確実に殺戮するという仕事が控えていた。火事のために、燃えさかる家から必死になって逃げだしてくる者や、燃えていなくても家から驚愕の余り飛び出してくる者があると、間髪をいれず、その戸口に待ち構えていた味方の者はその頭を殴りつけた。その間、たえず互に、「トム・ジェフリを忘れるな」という合言葉を大声で呼び交わした。(下巻・P324)

 トム・ジェフリというのは、レイプ犯の男の名前である。クルーソー以外の船員たちはトム・ジェフリを探すだけでなく、村から略奪することを目的に島に再上陸している。これと似たような事件は実際にあったのではないだろうか。江戸幕府が禁教令を敷いた理由のひとつはスペインやポルトガルの侵略を恐れたからだというが、『ロビンソン・クルーソー』を読んだ後では、この政策は正しかったのではないかと思ってしまう。

この本では興味深いところもたくさんあったが、なにか割り切れない複雑な思いが残った。おそらく自分が「蛮人」の側だからだろう。 

 

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