こだいらぽんたの読書日記

古典多めの読書日記です。名作映画100選もあります。

ダーウィン著『種の起源』(上・下)(渡辺政隆訳/光文社古典新訳文庫)

ダーウィン著『種の起源』(上・下)(渡辺政隆訳/光文社古典新訳文庫

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「人間の祖先は猿だった。猿が進化して人間になったのだ」という説をぶち上げて、世界中の人たちから非難された人。それがダーウィンのイメージだった。

ところが『種の起源』には、そんな記述はこれっぽっちも出てこない。進化論に賛成だの反対だの言っている人たちの中で『種の起源』を読んだ人はどれだけいるのだろう。

ダーウィンがさまざまな観察と考察から導き出した仮説は面白い。すべての動物と植物は、ある一種類の原型に由来しているというのだ。

「動物はせいぜい四種類か五種類の祖先に由来しており、植物はそれと同じかそれよりも少ない数の祖先に由来していると、私は信じている。類推をさらに働かせるならば、すべての動物と植物は、ある一種類の原型に由来していると信じるところまで踏み込める。(中略)したがって私は類推から出発して、地球上にかつて生息したすべての生物はおそらく、最初に生命が吹き込まれたある一種類の原始的な生物から由来していると判断するほかはない」(「種の起源(下)」P394~P395)

 生物は変異を起こす。もしその変異が多くの子孫を残すことに有利に働くならば、それは遺伝する。その積み重ねの過程が、もともとあった原種とは違った「変種」を生み出すことになり、やがてひとつの「種」を生み出すことになる。これが「自然淘汰説」だ。元々は猿も人間も動物も植物もない。みんな同じ幹から枝分かれした結果なのだ。

自然淘汰説は後世、「劣等民族は淘汰されてしかるべきである」という恐ろしい物語を作るのに悪用された。しかし『種の起源』からそんな荒唐無稽な物語は読み取れない。『種の起源』から読み取れるのは、地球上にいる生物は根っこが同じ一本の樹木なのだという真逆の物語だ。


他にもたくさん興味深い部分がある。植物でも動物でも、近親間の交雑だと活力のある子どもが生まれず、繁殖力も弱くなる。だから「近親相姦」を避けるために、植物もいろいろ工夫をしているのだ。一つの花におしべとめしべがある植物は、めしべの柱頭に受粉の準備ができる前に、おしべの葯がはじけるようになっているという。ほかにもさまざまな動植物の生態が書かれていて面白い。


それにしても、また思い知らされた。原典にあたらずに、その本を読んだ気になってはいけない。翻訳書だってかまわない。ショーペンハウアー『読書について』に書いてあるとおり、周辺の本ではなく「もとの本」にあたる姿勢を持ちたい。

 

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ショーペンハウアー著『読書について』(鈴木芳子訳/光文社古典新訳文庫)

ショーペンハウアー著『読書について』(鈴木芳子訳/光文社古典新訳文庫

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この本にはガツンとくる、あまりにも有名な部分がある。

読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。他人の心の運びをなぞっているだけだ。(P138-139)

こう言われるとぐうの音もでない。まさしくその通りだ。本をたくさん読めば、自分が賢くなったような気になる。しかし、本は、読めば読むほど馬鹿になるともいえる。自分の頭で考えることを忘れてしまい、他人の意見を自分で考えたことのように錯覚してしまうことがあるからだ。
では、どうすればいいのか。ショーペンハウアーは思想体系を身につけることの重要性を強調する。

思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ(P149)

 「何のために勉強するのか」と子どもに問われたら、「思想体系を身につけるためだ」と答えたらいい。

「思想体系」というのは、考え方の「型」となる部分のことだ。考え方の「型」は、基礎学力を向上させることによって身につけるしかない。基礎学力がなければ、その背景がわからないから、何を読んでも理解できない。何をどのように考えたらいいかもわからないから、関心だってわかない。自分の器を超えたものは手に負えないのだ。

世界を自分の理解したいように理解することを「反知性主義」というらしいが、そのような状態に陥らないためには「思想体系」を身につけ、批判的に本を読むしかない。


また、この言葉も印象的だ。

できれば原著者、そのテーマの創設者・発見者の書いたものを読みなさい。少なくともその分野で高い評価を得た大家の本を読みなさい。その内容を抜き書きした解説書を買うよりも、そのもとの本を、古書を買いなさい。(38-39ページ)

 ここでショーペンハウアーが強調しているのは、原典にあたることの大切さだ。解説書を読んで、その本そのものを読んだ気になってはいけない。元になるテキストにあたらなければ、その本を読んだことにはならない。ショーペンハウアーに言われると、より一層心が奮い立つ。

ひっきりなしに次々と本を読み、後から考えずにいると、せっかく読んだものもしっかり根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう。(P140)

いかに価値ある古典を読んでも、読みっぱなしではもったいない。耳が痛いが、心にとどめておこう。

 

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井筒俊彦『イスラーム文化ーその根底にあるものー』(岩波文庫)

井筒俊彦イスラーム文化ーその根底にあるものー」(岩波文庫

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井筒先生の解説は本当にわかりやすい。イスラームについて知りたかったら、この本は超おすすめだ。
イスラーム教はキリスト教徒よく似ているといわれる。しかしこの本を読んで強く感じたのは、このふたつ、実は全く性格の異なる宗教ではないだろうかということだ。

1.「悪はどこから来るのか?」をやはりイスラームも考えていた。
イスラーム教では、キリスト教のように人間を神の子などと考えることはしない。神と人間の関係は「主人と奴隷」の関係だという。何をされようが、ただひたすら神の思いのまま。人間が主体的に努力して救済に至ろうという考えは成立しない。イスラームも語源的に「一切を相手に任せること」という意味であり、ムスリムも「絶対帰依者」という意味なのだそうだ。人間の内在する力の働きは全くない。時間も空間も、その瞬間瞬間を神が創造しているのだから、因果律さえも存在しないというのだから、その他力本願ぶりは徹底している。


ところが、やっぱり出てくるのは「それなら悪はどこから来るのか?」問題だ。人間が無力で自由意志を持たないなら、この世の悪事はすべて神の責任なのか?
「自分では全然悪を為す能力がない人間に強制的に悪をさせておいて、しかもこれを罰するというのでは、いくら何でもひどすぎる」(77ページ)と、初期イスラーム神学で大問題になったというくだりがあったが、そりゃそうだろう。

アウグスティヌスは「善の欠如」でこの問題を決着させた。
しかし、イスラームがどのように決着させたのか、この本では言及されていない。

2.原罪の観念がないイスラーム
人間は見栄っ張りだ。それに嫉妬深い。とにかく、自分を他人よりも良く見せようとする。また、話を大きくふくらませて、事実とは異なる形で他人に伝えたがる癖も持っている。どんな局面でも自分だけは損をしないように振舞おうとする。人から聞いたことをあたかも自分が考えたことかのように言う癖もある。

人間が逃れようとしても逃れられない悪い癖。これが「原罪」だ。
ところがイスラーム教は原罪の観念がないという。アダムとイヴの失楽園物語は「コーラン」の中でも出てくる。ふたりが知恵の木の実を食べたため、神の怒りを買い、楽園を追い出されるところは「旧約聖書」と同じだ。しかし、アッラーの神は言いつけを守らなかった人間どもを許してしまうのだ。

「『しかし(後に)アーダムは主から(特別のお情けの)言葉を頂戴し、主は御心を直して彼に向かい給うた。まことに主はよく思い直し給う。主は限りなく慈悲深いお方」(二章、三五節)』・・・(中略)・・・こうして人間の本性は元来、清浄で汚れなきものであるとイスラームは考えます。原罪によって本性的に汚されてはいないのですから、苦しみによる浄化は必要としません」(134ページ)

「現実の人間はたしかに悪に染まっており、堕落して汚れたものではあるけれども、それは偶然的な汚れであって、本質的な汚れではない。人間の力で直していけるものである」(137ページ)

 人間に「原罪がない」ことなどあり得るのだろうか。嫉妬心も、他人のものを欲しがったり羨ましがったりする気持ちも、見栄っ張りな気持ちも「これっぽっちも」持ち合わせていない状態にまでなることなど、本当にあるのだろうか。人間のどうしようもない部分を、努力で「ましな状態」にすることはできても、「直す」ことなど可能なのだろうか。

しかし、イスラームは人間の努力でなんとかなる問題なのだと説く。明るいといえば明るい。

3.スンニー派シーア派は中身が全然違う
青木裕司 世界史B講義の実況中継』(語学春秋社)によれば、シーア派は「ムハンマドの血を受け継いだ人々にしか指導者としての権威は認めない」という宗派であり、スンニー派(「実況中継」では「スンナ派」)は「ムハンマドの血を受け継いでいなくても指導者として受け入れる」という宗派だ。
だが『イスラーム文化』を読むと、このふたつの違いは血統がどうのこうのといったこと以上のものがある。スンニー派シーア派は、中身が全く違うのだ。ひとことで言えば、スンニー派顕教シーア派密教だ。シーア派にとって「コーラン」は暗号だ。暗号は解読されなければならない。その秘密の意味を知ろうとするのが密教的だというのだ。神も自分の外側ではなく、自分の内部を見つめることで見つけようとする。
ところで、アラビア半島もイランも一緒くたにしている人は少なくないだろう。なんとなくあの辺は「中東」なんだなと認識している人もいる。ところが、少しでも世界史の教科書を読んでみると、アラブとペルシャは全く違う文脈で登場する。多数派のスンニー派はアラブの宗教、少数派のシーア派ペルシャの宗教だ。このふたつを「イスラーム教」でまとめてしまうにはあまりにも違いすぎる。この本を読んでそんな感想を抱いた。

 

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作者未詳『虫めづる姫君 堤中納言物語』(蜂飼耳訳/光文社古典新訳文庫)

作者未詳『虫めづる姫君 堤中納言物語』(蜂飼耳訳/光文社古典新訳文庫

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平安貴族はいかにもヒマそうだ。書物もなかなか手に入らない時代だ。いったい何をして暮らしているのか?
ところが、いかにもヒマそうな平安貴族の物語はとても面白かった。

堤中納言物語」は十編の物語と一編の断章からなる物語集だ。表題の「虫めづる姫君」は特に印象的な作品だ。主人公は化粧っ気のまったくない風変わりなお姫様。着物の着方も変。眉毛は手入れをしていないからぼうぼうに生えている。お歯黒はしていないから歯は真っ白。虫が大好きで、特に毛虫がお気に入り。色気のないお姫様に大輔という侍女がいろいろ文句を言うと、お姫様はぴしゃりと言う。

「悟ってしまえば、恥ずかしいことなんて、なにもないよ。この世は夢幻みたいに、はかないものなんだから。だれがいつまでも生き長らえて、あれは悪い、これは善いなんて、判断できるっていうのよ。そんなこと、だれにもできないじゃない?」(79ページ)

 この答えはなかなか哲学的だ。まるでヘーゲル弁証法だ。何が「普通」で何が「普通でない」のか、短い人生の中でどうやって見極めるというのだろう。今いいと思い込んでいる価値観は簡単にひっくり返るのだ。よくぞ平安時代の人間がここまで鋭いことを書いたものだと感心する。
そのほか、恋い焦がれる姫君さまのもとに忍び込み、牛車に乗せようとしたところ、間違えて姫君のおばあちゃんを乗せてしまったという笑い話「花桜折る中将」や、突然恋人がやってきたので、あわてて化粧をしようとしたところ、おしろいと間違えて炭を塗りたくってしまい、恋人が逃げ帰ってしまったという「はいずみ」などの滑稽話も載っている。きっと平安時代の人々もおなかをかかえて大笑いしただろう。これらの物語できっと盛り上がったはずだ。その光景を想像するととても楽しくなる。
ただし、特に古典は現代語訳とはいえど、登場人物をしっかり把握しておかないと迷子になってしまうので要注意だ。人間関係もややこしい。だからこの本は線をひいたりマルをつけたり、普段以上に書き込みが多くなった。

古文そのものを細切れに読むよりも、現代語訳でいいから通して読んだ方が平安文学の面白さは味わえる。これだけ現代語訳が出ているのだから読まなければもったいない。

 

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書物と真剣に格闘するということ。/アウグスティヌス著『告白Ⅲ』(山田晶訳/中公文庫)

アウグスティヌス著『告白Ⅲ』(山田晶訳/中公文庫)

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最終巻「告白Ⅲ」は哲学的な要素が入ってきて、突然難しくなる。私の読解力(および基礎知識)では理解できないところも多い。それでも懸命に読んでみた。

それにしても、1600年前によくも「時間とは何か」という問いをたてられたものだと驚嘆する。

1.神は天地を創造すると同時に、時間も創造した
「神は天地を創造する以前は、何をしていたのか?」という問いに対して、アウグスティヌスは「何もしていなかった」と答える。そんな答えでいいのか?と心配になるほどあっさりしているが、そこには時間に対する考えがある。

「天地の存在する以前には時間も存在しなかったとすると、『そのときあなたは何をしていたか』などと、どうしてたずねるのでしょうか。時間がなかったところには、『そのとき』などもなかったのです」(35~36ページ「告白Ⅲ」)

 それでは時間とは何なのか。過去、現在、未来とは何なのか。過去はすでになく、未来はまだここにない。現在はあっという間に過ぎ去ってしまう。それなのに、どうやって時間を測ることはできるのか。

「過去についての現在とは『記憶』であり、現在についての現在とは『直観』(ここでは文字通り、目の前のものを直接見つめること)であり、未来についての現在とは『期待』です」(52ページ「告白Ⅲ」)

「ですから長いのは未来の時ではありません。未来の時は『ない』。長い未来とは、未来についての『長い期待』にほかなりません。長いのは過去の時でもありません。過去の時も『ない』。長い過去とは、過去についての『長い記憶』にほかなりません」(75ページ「告白Ⅲ」)

「いくつかの方向への分散状態が私の生命なのです」(77ページ「告白Ⅲ」)

 

つまり、過去と現在と未来について気が配られている「人間の心のありよう」が「時間」だというのだ。
何かの原因で地球上の全人類が絶滅したら、時間も消滅するということか。時間が人間の精神の中にあるとしたら、そういうことになりそうだ。
興味深いのは、アウグスティヌス占星術による占いを完全否定していることだ。占いがあたるのは偶然にすぎないのだという。未来は「まだない」のだから、見ることができないものだからだ。
占いと宗教はまったく別物らしい。このことは強く印象に残った。

2.書物と真剣に格闘するということ
「告白Ⅲ」の巻末には山田晶の解説「教父アウグスティヌスと『告白』」が載っている。この解説文の初めに、山田先生の自伝的記述が書かれているのだが、これを読んで心が揺さぶられた。

「京大にはいって、はじめて訪れた哲学科の書庫で、まず借り出したのが、アウグスティヌスの『告白』だった。その日から翌昭和十八年の十二月、いわゆる学徒出陣で海軍に入隊する日まで、ほとんど毎日のように学校にかよってこの本を読んだ。高校時代に独習したラテン語と、辞書と訳書をたよりに、強引に読みすすんだのだった。当時の京大の構内は、いまよりも静かだった。閲覧室は午後九時まであいていた。夜など、だれもいない部屋で本を読んでいると、静けさがはらわたにしみわたっていくようだった」(290ページ)

「しかしその静けさは、平和の静けさではなく無為の静けさでもなかった。それは不気味な静けさだった。海や陸では死闘がくりひろげられ、多くの人々が血を流していた。自分たちは大学生の特典で兵役を延期されていたが、いつ兵役にとられるかわからなかった。
そういう状態で勉強できるこの時間は、まことに貴重だった。未来に希望がなかったから、今この一瞬の勉強に、全生命をかけた。私の心はまさに『暗い中世』だったのだ。暗さの中に、一条の光明を求めていたのだ。しかしこの現実から逃げようとは思わなかった。許されるあいだ勉強しよう。征(ゆ)く日がきたらいさぎよく征こうと思っていた。その日は思いがけず早くきたが、残念とは思わなかった。私はそれまで続けてきた研究ノートに『生きてかえれたらまたつづけよう』と書いた。何の未練もなかった」(293~294ページ)


周囲を取りまく静けさが迫ってくるような気がした。

同時に、真剣に書物と向き合うということはこういうことなのだとも思った。

いつ戦場に駆り出されて、明日死ぬかもしれない。そんなぎりぎりの状況の中で、命がけで書物と格闘する。役に立つとか立たないとかそんなものはどうでもいいことだ。
「ほんとうのことが知りたい」。ただそれだけだ。それだけのために、山田先生はこの難解な書物と向き合い、真剣にアウグスティヌスと対話したにちがいない。この静かな文章からそれが伝わってきて、涙がこぼれそうになった。

この著作を通じて、今では誰でも1600年前に生きた最大の教父アウグスティヌスに会うことができる。注釈もていねいでわかりやすい。その恩恵は計り知れない。

 

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この世に悪は実在しない。あるのは「善の欠如」である。/アウグスティヌス著『告白Ⅱ』(山田晶訳/中公文庫)

アウグスティヌス著『告白Ⅱ』(山田晶訳/中公文庫)

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アウグスティヌス北アフリカのタガステに生まれた。カルタゴに遊学し、マニ教に入信。その後、修辞学をカルタゴやローマで教え、そして修辞学教授としてミラノへと渡った。ミラノで出会った司教アンブロシウスの影響で、カトリックの教えに目覚めていく。


1.マニ教カトリック教会への攻撃に対して反論したアウグスティヌス

マニ教は「神がこの世を創造したのなら、この世の悪を創造したのも神なのか?」と、カトリック教会を非難した。この疑問に対するアウグスティヌスの答えはこうだ。

「悪なるものは、つきつめていけば完全な無になってしまうような、善の欠如にほかならない」(「告白Ⅰ」121~122ページ)

悪なんてものはこの世にはない。あるのは「善の欠如」だ。

この世で神が作ったものはすべて善である。悪に実体があるわけではなく、肉体を持つ「悪魔」など存在しない。悪は人間の「自由意志」から生まれるのだ、とアウグスティヌスは言う。

「私は、不義とは何かとたずねてみて、それが実在するものではなく、むしろ至高の実在である神、あなたからそむいて、もっとも低いものへと落ちてゆき、内なる自己を投げすてて、外部に向かってふくれあがってゆく転倒した意思にほかならない、ということを悟りました」(「告白Ⅱ」54ページ)

 
マニ教は「人間が神の似姿として作られたとしたら、神には髪や爪があるということか?」とも攻撃している。しかし、アウグスティヌスは「人間が神の似姿として作られた」とは、実在する肉体の意味ではなく人間の精神の意味であると反論する。

「(動物とは違って)人間は問いを発し、神の見えないところを造られたものを通じて悟り、あきらかに見ることができます」(238ページ「告白Ⅱ」)

「神の似姿」とは肉体が似ているのではなく精神が似ているという意味である。 これはアウグスティヌスが師匠であるアンブロシウスから学んだ教えでもある。

2.「告白」の一番有名な場面
マニ教から離れ、カトリックの真理を知るようになったアウグスティヌスは自らの生活のすべてを神に捧げようとする。しかし、それは単なる「決心」にすぎない。心の声に真っ正直になってみると、どこかで抵抗の声が聴こえるのだ。信じていないものを信じていると言ってはいけないのだ。この状態に悩んで悩み抜いて、ついに庭で大泣きしてしまうアウグスティヌス。すると、隣の家から声が聞こえてくる。

「隣の家から、くりかえしうたうような調子で、少年か少女か知りませんが、『とれ、よめ。とれ、よめ』という声が聞こえたのです。(中略)私はどっとあふれでる涙をおさえて立ちあがりました。これは聖書をひらいて、最初に目にとまった章を読めとの神の命令にちがいないと解釈したのです」(137~138ページ「告白Ⅱ」)

 そこでアウグスティヌスは聖書を手に取り、パウロ書簡に書かれたことばを必死に読む。「とれ、よめ」がアウグスティヌスにとってまさしく神のことばとなるのだ。
山田晶氏の注釈によれば、「『とれ、よめ』というのは文学的虚構なんじゃないか」とか「空耳なんじゃないか」とか、歴史家の中ではいろいろ言われているらしい。しかし空耳だろうが何だろうが、アウグスティヌスがそのように聞こえたのなら、それが真実なのだ。与えられたことばは受け取った人のものになる。
信じているかいるかどうか自分でもわからないあやふやなものを、軽々しく「信じている」と言ってはいけない。その信念のもと、真っ正直に自分の心の底を見つめた人間に対して与えられた言葉だろうと私は感じている。

「名前は知られているがあまり読まれていない古典」に挑戦するのは疲れるが、非常に楽しい。ネットであらすじを調べても読んだことにはならない。原典にあたることを何よりも大事にしたい。

(最終巻「告白Ⅲ」に続く)

 

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「最大の教父」は「最大のとんでもない悪童」だった/アウグスティヌス著『告白Ⅰ』(山田晶訳/中公文庫)

アウグスティヌス著『告白Ⅰ』(山田晶訳/中公文庫)

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アウグスティヌスは、古代ローマカトリック教会の教義を確立するために力をつくした「最大の教父」といわれる。全3巻。かなり読み応えがあった。読書日記は1冊ずつアップする。山田晶氏のあとがきは何度読んでも心が震える。それも最後に書くつもりだ。


一分冊目には、「最大の教父」様の子供の頃の悪童ぶりが余すことなく書かれている。大丈夫なのだろうかとはらはらするような告白だ。
子供時代から、アウグスティヌスのやんちゃはたいしたものだった。

「遊び好きで、くだらない見せ物を見たがり、芝居のまねをして落ち着かず、数えきれないうそをつき、家庭教師、学校の先生、両親をだますので、みな私にはてこずっていました」(62ページ)

家のものを盗んで友達の玩具と交換したり、遊びではいかさま勝負をしたり、注意されると暴れたり。周囲も手が付けられない。
16歳になると、これに女遊びが加わる。浴場で性行為?をしているのを父親にも見られている。

「(私は)やみくもに突進し、醜行が同年輩の友人に劣るのを恥じたほどです。じっさい、私は、彼らが放蕩を誇り、醜ければ醜いほどますます自慢するのを聞いて、たんに行為にたいする情欲のみならず、賞讃による情欲にもかきたてられ、よろこんでそれをしたのでした」(78ページ)

どんなに悪いことをしたか仲間と自慢しあう。今も昔も変わらない。
アウグスティヌスは9年間マニ教に帰依した。そこから離れたのちも、アウグスティヌスカトリックの洗礼を受けることを躊躇している。その理由のひとつが「女を抱けなくなるのは嫌だ」からだ。古代はそれくらいしか楽しみがなかったのかもしれない。カトリックは禁欲的なイメージがあるが、元祖はこんな感じだ。
先にも書いた通り、19歳から28歳まで、アウグスティヌスマニ教徒だった。しかし、このマニ教が実は「傲慢で気の狂った人間たち、きわめて肉的でおしゃべりな人間たち」(114ページ)による宗教だったとアウグスティヌスは考えるようになる。実際、「告白」全3巻はマニ教に対する批判がかなりの部分を占めている。それにしても自分が一度は信じた宗教を「傲慢で気の狂った人間たち」の宗教だと言い切るとは、アウグスティヌスの激しい性格がうかがえる。


マニ教は『旧約聖書』を攻撃し、それを認めるカトリック教会をも非難していた。
「神が万物を創造したというなら、この世の『悪』を創造したのも神なのか?」
「人間が神の似姿として作られたというなら、神には髪だの爪だのがあるのか?」。
しかし、これはもっともな疑問ではないだろうか。

神が善を作ったのなら、悪を作ったのも神であるはずだ。そうでないとするなら、悪はどこからやってきたのだろうか。
また「人間が神の似姿として作られた」という言葉はどう解釈すべきなのだろうか。神様も人間みたいに髪やら爪やらが生えるのかね。
このようにカトリックを批判するマニ教徒たちに、アウグスティヌスが反論する。

(「告白Ⅱ」に続く)

 

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