こだいらぽんたの読書日記

古典多めの読書日記です。名作映画100選もあります。

忘れたい過去も苦い思い出も、自分自身の一部として存在している。/村上春樹著『ノルウェイの森』(下巻)

村上春樹著『ノルウェイの森』(下巻)(講談社文庫)

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ざっくりとした内容

*直子の療養所から帰ってきた「僕」は、現実世界に戻って来れない不思議な感覚を覚えていた。そんな「僕」を現実世界に引き戻してくれたのは緑だった。ある日曜日、緑に誘われて「僕」は入院中の緑の父親の元へ訪れることとなる。ぐったりとベッドに横たわり口も満足にきけない緑の父親はもう長くないようだった。そんな父親と「僕」は一時心を通わせる。

*「僕」の寮に住む先輩、永沢は外務省に難なく合格する。東大に入ることも女の子を引っかけて寝ることも彼にとってはただのゲームにしか過ぎない。ある日、永沢の就職祝いという名目で「僕」は食事会に誘われる。食事会には永沢の恋人であるハツミさんも同席していた。永沢の女漁りに傷ついているハツミさんは、永沢と激しい口論をする。

*1969年11月。直子から手紙がくる。「夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます」「この手紙も力をふりしぼって書いています」という内容だった。1969年12月、「僕」は再び直子の療養所を訪れる。直子はずっと無口になっていた。「僕」は直子に「ここを出て一緒に暮らそう」と提案する。1970年学年末のテストが終わり、「僕」は直子と暮らすための一軒家を借りる。しかしその後、何度手紙を書いても直子から返事が来ることはなかった。

*1970年4月。直子の面倒をみてくれているルームメイトのレイコさんから突然手紙がくる。直子の病状が悪化しているという内容だった。幻聴が始まり日常生活も困難な状態だという。直子が快方に向かっていると思っていた「僕」は、奈落の底に突き落とされたような激しいショックを受ける。

*「僕」は緑をも失いかけていた。緑は「僕」が自分の心を全く開かないことに怒り傷つき、「僕」から離れてしまったのだ。緑がいなくなって、初めて緑を深く愛していたことに気づく「僕」。しかし一方で直子のことも深く愛している。このふたつは嘘偽りのない感情だった。

ぽんたの独断レビュー

この小説のラストのレイコさんの台詞がとても好きだ。「ああ、村上春樹はこれが言いたかったんだな」ということに思い当たり、ぎゅっと胸が熱くなった。

「死」とは何だろうか。「死」は生物学的な死のみではない。生きることで失い続ける多くのもの。それはすべて「死」と同意義なのだ。

たとえば学校や会社で裏切られたりいじめられたり、親から心ないことばを投げつけられて怒り傷つき恥ずかしい思いをしたことはないだろうか。逆に自分が加害者となって人を傷つけるようなひどいふるまいをしたことはないだろうか。そんな時、人は自分の大切な「何か」が抜け落ちてしまう。ぽっかりと穴があき、その空洞は二度と埋まらない。そんな欠落を抱えて生きることは「死」を抱えて生きることと同じなのだ。

でも我々は生き続けなければならない。ではどうすればいいのだろうか。嫌なことは忘れる、というのもひとつの手段だろう。しかし『ノルウェイの森』で提示されるのは、辛い過去を決して忘れることなく欠落を抱えたまま生きる、という生き方だ。誰だって欠落という「死」を内包したまま生きている。忘れてはいけない。忘れたふりをしてもいけない。忘れたい過去も苦い思い出も、それは紛れもなく自分自身の一部だからだ。

主人公の「僕」は、自分が緑を深く愛していることに気づき混乱する。死の世界に引きずり込まれそうな直子と違い、緑は「生きる世界」の人間だ。「僕」が緑に強く惹かれるのもそこに理由がある。しかし「僕」は直子のことも深く愛しているし、責任も感じている。緑に強く惹かれることは、直子を途中で放り出すようなものだ。

「僕」はこういう自分自身のことが許せない。そんな気持ちをレイコさんに正直に打ち明ける。レイコさんの答えはこうだ。

「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしのつかないことになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい」(P281-282)

直子は精神の病が高じて自殺してしまった。「僕」には直子を救うことができなかったのだ。後悔の念にさいなまれる「僕」に対するレイコさんのことばは示唆に富んでいる。

直子を裏切ってしまったかもしれないという「僕」の痛みは、まぎれもなく「僕」の一部だ。だから無理に忘れるのではなく、その痛みもまた自分自身の一部として内包したまま生きるべきだというのだ。親友のキズキが死んだとき「僕」の一部は死んでしまった。直子が死んで、「僕」の一部はまたしても死の世界に引きずり込まれた。「僕」はこれからもずっと「死」という名の欠落を抱えて生きていくことになるだろう。

一方、死者は時に生きている者同士を結び付けてくれることもある。「僕」が緑の死んだ父親のことに思いを巡らすシーンが何度かあるが、「僕」が死者を何度も思い出すことで「僕」と緑は結び付けられていく。緑の父親は実に大きな役割を果たしている。

数多くの欠落を抱え、数多くの死者とともに生きる。それが生き続けるということだ。まさに「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」のだ。

 

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自分の中のさまざまなものが失われていくこと。それは死と同意義である。/村上春樹著『ノルウェイの森』(上巻)

村上春樹著『ノルウェイの森』(上巻)(講談社文庫)

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ざっくりとした内容

ハンブルク空港に着陸しようとしている飛行機のスピーカーからBGM「ノルウェイの森」が流れるところから話は始まる。この曲は現在37歳の「僕」に自分が失ってきた多くのものを呼び起こさせる曲なのだ。いつの間にか薄れてしまう死者の記憶は僕の心の奥底を揺り動かす。「起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を」。だから僕はそれを理解するために文章を書くのだ。

*1966年春。「僕」が直子に会ったのは高校二年生の春だった。直子はキズキの恋人であり、キズキは「僕」の親友であり、三人はいつも一緒にいた。しかし5月にキズキは突然自殺してしまう。理由は誰にも分らなかった。

*1968年春。「僕」は高校卒業後東京の私立大学を受験し、故郷の神戸を離れて学生寮に入っていた。誰も知らない場所に行きたかったのだ。そんな新生活を始めた東京で「僕」は偶然直子に会う。彼女も東京の私立大学に進学していたのだ。それから「僕」は直子とちょくちょく会うようになる。直子は「何か言おうとしても見当違いの言葉しか浮かんでこない」という病で苦しんでいた。

*1969年4月。直子が20歳の誕生日を迎えた日、彼女の病は顕著な形で現れる。彼女の口からことばがあふれ出して止まらなくなり、しかし本当に言いたいことにはいつまでたっても触れることができない。「僕」は泣きじゃくる直子を抱きしめ肉体関係を結ぶが、彼女が処女であったことに驚く。直子は恋人のキズキと寝ていなかったのだ。直子はこの日以来「僕」の目の前から姿を消す。彼女はアパートを引き払っていた。何度手紙を書いても彼女から返事がくることはなかった。

*1969年7月。突然、直子から手紙が来る。彼女は大学を休学して京都の山奥にある療養所に入ることになったという。「僕」は哀しい気持ちで手紙を読み返す。体の中の何かが欠落し、その空洞を埋められない。そんな時に「僕」の目の前に現れたのは、たまたま同じ講義を取っていた生命力あふれる女性・小林緑だった。緑は「僕」を食事に誘うようになり、ふたりは親しくなる。

*1969年秋。直子から「僕」のもとに、京都の療養所に会いに来てほしいと手紙がくる。病状が落ち着き、そろそろ外部の人との接触が必要だと医者からアドバイスを受けたからだという。「僕」が向かった療養所には、直子のほかに、直子のルームメイトのレイコさんがいた。

ぽんたの独断レビュー

村上春樹の小説には、「僕」の一人称が突然「俺」になる場面がある。「俺」で語られているところは常に注意して読んでいる。ひとりの人間の心の奥底に潜む実体が叫んでいる場面のように思えるからだ。

小説の冒頭では死者のことを忘れつつある37歳の「僕」が登場する。「僕」は生きている世界にいるので、つい死者のことや失ったものを「過ぎ去った過去」のように考えてしまう。しかし死者の記憶を呼び覚ますのが「ノルウェイの森」のBGMだ。この音楽が「起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を」と「僕」の深層心理を揺さぶるのだ。

 

「僕」が高校二年生のとき、唯一の友だった親友のキズキは突然自殺してしまう。「僕」はキズキの死を境にして「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と考えるようになる。これはどういう意味だろうか。

村上春樹の重要なテーマのひとつは喪失だ。生きていくことは何かを失い続けることだ。失うものは若さだけではない。少年期に感じたある種のあこがれだとか、分かり合えると思っていた人との関係だとか、そういったものだ。故郷の開発が進んで、故郷を失ったと感じることもあるかもしれない。自分の中のさまざまなものが死んでいく。死は「向こう側」のものではなく、すでに生の一部として存在しているのだ。唯一の友人であるキズキを失った「僕」は、自分の一部が死んでしまった。その欠落を抱えながら「僕」は生きていくことになる。「僕」だけでなく、この小説の登場人物は何らかの欠落を抱えながら生きている。すでに死んでしまった自分の一部を内包しながら生きているのだ。

 

村上春樹のもうひとつの重要なテーマは「他者との関わり」だ。「僕」は心を閉ざしてしまい、他者とうまく関わることができない。人を愛したこともない。「たぶん僕の心には固い殻のようなものがあって、そこをつき抜けて中に入ってくるものはとても限られているんだと思う」と「僕」は直子に語っている。直子は「何か言おうとしても見当違いの言葉しか浮かんでこない」という病を抱えているが、それは「僕」も同じなのだ。自分の心の奥底に潜む思念を言葉にできず、他人と感情を分かち合うことができない。しかし自分の殻の中にこもってやり過ごす術を知っているので、「病」に見えないだけだ。「僕」に救いは訪れるのだろうか。

 

一方、学生運動に対する村上春樹の立場がはっきり出ている場面にはかなり興味を引かれた。

ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。(中略)彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方がなかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。(P101)

学生たちのまくビラに対しても「説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を駆りたてる力もなかった」「この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った」(P121)と、容赦ない。村上春樹がどのような気持ちで学生運動を見つめていたかうかがい知れるような一節だ。

(下巻に続く) 

 

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佐藤優著『人をつくる読書術』(青春新書インテリジェンス)

佐藤優著『人をつくる読書術』(青春新書インテリジェンス)

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世の中には「本を読む人」と「本を読まない人」がいる。そして「本を読む人」にしか得られないものがある。本書は何をどのように読むか、さらになぜ読まなければならないか体系的にわかりやすく書かれている。

「何」を読むべきかに関して、筆者は古典の重要性を説く。古典はそのテキストを読んでいるギャラリーが一定数いるため、批評がある程度積み重ねられ、読み方のスタンダードがはっきりしているからだ。なかでもおすすめは小説だという。なぜなら、物事を一つの視点や価値観からとらえるのではなく、つねに重層的、複眼的な視点でとらえることができるからだ。例えば、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』を例にあげて筆者はこのように述べている。

複眼的な視点がもてるようになると、コミュニケーションの仕方も当然変わってきます。一面的なものの見方しかできないと、相手の言葉や反応に対して好悪、善悪、是非、可不可といった単純な反応しかできません。(中略)

複眼的な視点をもてば、物事に対する決めつけが少なくなる。偏見もなく、さまざまな角度から検証できるので、より正確かつリアルに対象を把握することが可能になります。(P64-65)

 これを読むと、マーガレット・ミッチェル著『風と共に去りぬ』の女主人公スカーレット・オハラを思い出される。彼女は頭がよくて困難にぶち当たってもへこたれない生命力もあるのに、教養がないために俯瞰して物事を見ることができない。目の前にいる人がどういう内在的論理で行動しているか見極めることができず、快・不快の感情だけで刹那的に判断してしまう。日常生活で何が起ころうと、彼女は理解したいようにしか理解できない。これがどんどんスカーレットを不幸に追いやっていく     という物語だ。確かに古典小説は重層的なものの見方を学べる格好のテキストかもしれない。

 

筆者が人生の節目節目で読書の指南役に出会い、その時必要としている本に出会っているのも面白い。「本を読む人」になるためには、意外と人との出会いも大切な要素なのかもしれない。

個人的に面白かったのは、最終章の「キリスト教者をつくる本の読み方」だ。あまり「読書術」とは関係ないかもしれないが、読み飛ばしてはいけない。

なぜなら、誰もが気になる「神は人間が勝手に頭の中でこしらえた妄想なんじゃないか」という問題について神学者たちがどのように解決したか、平易なことばで説明されているからだ。カール・バルトが示した解決法については「なるほど」と思った。バルトの言葉である「不可能の可能性」も含蓄が深い。

「神学とは、人間がけっして感知したりイメージしたりできない神を、人間の言葉で表象するという根源的な矛盾を抱えた学問になる。けっして人間が認知できない存在を、牧師や神学者は人間の言葉で表さなければならない」(P195-196)

この矛盾をバルトは「不可能の可能性」という言葉で言い表したというのだが、これは神学に関係ない人間にとっても考えさせられることばだ。世の中は矛盾に満ちているが、その矛盾にじっと耐えることの大切さがイメージとして浮かんでくる。絶対に不可能だとわかっていながら、それでも可能性を探っていく。生きていくうえでとても大切な言葉のような気がする。

 

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他者とのつながりを失った「僕」が救済される物語/村上春樹著『羊をめぐる冒険』(下)(講談社文庫)

自分の存在は他者という鏡を通して確かめることができる。他人がいるからこそ、自分がいる。ところが他者との関わりが全く失われてしまったとき、人は自分自身の存在を確かめることはできない。

主人公の「僕」は自分自身を映し出す鏡をすべて失ってしまった。妻を失い、故郷を失い、仕事も失い、友も失った。他者とのつながりを失ってしまった時、自分の存在はどこでどうやって確かめたらいいのだろう。

羊をめぐる冒険』は自分の存在を見失ってしまった「僕」が救済される物語だ。だからこそ、この小説はまぎれもなく「僕」の物語であり、まぎれもなく青春小説なのだ。

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村上春樹著『羊をめぐる冒険』(下)(講談社文庫)

ざっくりとした内容

*背中に星印を背負った謎の「羊」を探すため、「僕」とガールフレンドは北海道・札幌へとやってきた。そして羊が写りこんでいる写真の場所が「いるかホテル」の支配人の父親がかつて所有していた土地であることを突き止める。「羊博士」と呼ばれている支配人の父親は、1936年満州の洞窟で「羊」に会い、「羊」に体の中に入られたという。そして42年前、「羊」は羊博士の中から去ってしまった。「羊抜け」の状態になると思念のみが体の中を渦巻いて放出できない地獄の状態になるという。

*謎の「羊」が写りこんでいる牧場は、今はある金持ちが別荘として所有しているらしい。この「ある金持ち」というのは「僕」の親友である鼠の父親であることに僕は気づく。そこで僕たちは、牧場を目指して「十二滝町」という地の果てにあるような辺鄙な町へと向かう。そこはかつて津軽からやってきた農民たちによって開拓された土地であったが、現在は寂れ果てて死んだような田舎町となっていた。

*ようやく十二滝町に到着した「僕」とガールフレンド。牧場はそこからさらに車で三時間走った山の上だ。緬羊飼育場の管理人にジープで連れて行ってもらうが、昨夜の雨で地盤が弱くなっているためジープは途中で通れなくなってしまう。仕方なく「僕」と彼女はジープを降り、徒歩で別荘に向かうことにした。ところが何かがおかしい。別荘の手前には不吉で嫌な予感のするカーブ。別荘に入ったとたん襲われる不思議な感覚。いったい彼らは謎の「羊」に辿り着けるのだろうか?

ぽんたの独断レビュー

上巻のレビューでは7つの疑問点を出しておいた。それに答えるかたちでレビューを進めたい。

1、「羊」とはなにか。

人間は心の奥底にグロテスクなものを持っている。他人を支配したいとか、他人の物を奪って自分のものにしたいとか、異様に嫉妬深かったりとか、人間の心の奥底をじっと見つめれば誰だって必ずこういった「悪」を抱えているものだ。それを解き放つと大変なことになる。人間の心の奥底に潜む「悪」の思念を解き放つ「何か」がたまたま「羊」の形をとって現れたのだろう。しかし「羊」そのものは善でも悪でもない。「悪」はあくまで人間の心の中にある。

2、「耳の女の子」とは何者か。

彼女の存在で「僕」はどれだけ癒されたかわからない。彼女が「僕」を特別扱いするのは「あなたが私を求めたから」だという。他者を求めることが「僕」にはまだできるのだ。そして「僕」が「自分自身の半分でしか生きていない」ことも言い当てる。「耳の女の子」は「僕」を救済される入口まで連れて行ったところで突然姿を消してしまう。ここまでがこの小説で与えられた彼女の役割だ。彼女は「僕」を入口まで連れていくことはできても、救済することまではできない。「僕」自身を救済するのは、あくまで「僕」自身にしかできないからだ。

3、小説冒頭に出てくる「誰とでも寝ちゃう女の子」とは何者か。

「誰とでも寝ちゃう女の子」も、他人とコミットできない「僕」の病を見抜いた子だ。誰とでも寝る理由を尋ねられると、彼女は「私はいろんな人を知りたいのかもしれない。あるいは私にとっての世界の成り立ちかたのようなものをね」と語っている。彼女は男と寝ることによって自分と世界のつながりを確かめている。そんな彼女だからこそ「僕」と寝ることで、「僕」が何かに悩んでいることに気づくのだ。「あなたはいったい何を抱え込んでいるの?」と。「私を殺したいと思ったことある?」と訊ねたのも、他人を殺すことによって自分の存在を確かめたいと思ったことがあるかという問いかけだろう。

4、「僕」にとって妻はどういう存在か。

「僕」は妻と離婚する。しかし「僕」が誰よりも関わり合いを持ちたかったのが妻だったはずだ。彼らは生活を営むうえでの「役割分担」はうまくいった。しかし機能的なものだけでは夫婦はうまくいかない。結婚生活を続けるには互いの嫌な部分を徹底的にさらけ出す必要がある。「僕」はそこに気づかない。せめて妻とのセックスの数を記録しておけばよかったと途方もないことを考える始末だ。「僕に必要なものは正確に数字であらわせるリアリティーなのだ」と。しかし他者との関係を数字で表すことはできないのだ。

5、「僕」の故郷の消滅はこの話全体にどう関わってくるのか。

「僕」の故郷の海は埋め立てられ、街は消滅しつつある。自分のルーツが消え去ることは自分の存在を確かめる何かがまたひとつ消滅してしまうことを示している。

しかしまだ埋め立てられていない50メートル分の砂浜と「ジェイズ・バー」が残っていることが「僕」の救いとなる。最後に鼠と「僕」を「ジェイズ・バー」の共同経営者にしてほしいとジェイに頼んだのは、「ジェイズ・バー」こそが彼らに残された自己の存在を証明する最後の砦のようなものだからだろう。50メートル分の砂浜の前で「僕」が涙を流すラスト・シーンも見逃せない。

6、「鼠」と「羊」の関わりは何か。

「羊」自体は善でも悪でも何でもなく、人間の奥底に潜む「何か」を呼び覚ます装置にしか過ぎない。鼠も「僕」と同じく、他者との関わりを持つことができないことで自分自身の存在を確かめることができない病に落ち込んでいた。(だから鼠の彼女は、「僕」と鼠の雰囲気が似ていると言い当てたのだ。)他者を鏡として使うことができないなら、自分の心の深いところに下りて行って、暗闇をじっと覗き込むしかない。ところが鼠は自分の心の深淵を覗き込んで、自らの持つグロテスクさに気づいてしまう。それを開放すると自分が自分でなくなってしまうことを鼠は知っていた。だからこそ、鼠の自分自身の存在を証明する方法は死ぬことしかなかった。「我々はどうやら同じ材料から全くべつのものを作り上げてしまったようだね」と鼠は「僕」に語りかけている。鼠は「死」によって自分自身の存在を確かめ、僕は「生」によって自分自身の存在を確かめたのだ。

7、「僕」の飼い猫に名前がついた意味は?

飼い猫に名前をつけないなんて、この一件だけでも「僕」の病が相当深刻だったことがわかろうというものだ。人は身の回りのものに名前をつけることで、世界とのつながりを持つ。飼い猫はその他大勢の猫とは違った存在なのだから。猫が「いわし」と名付けられたことで、「僕」と猫、ひいては世界との距離はぐんと縮まったはずだ。

最後に:「羊男」とは?

十二滝町の歴史の話も興味深い。自分自身の存在がどういうものかを確認したければ、いきおい祖先が辿ってきた歴史にまでさかのぼらなければならない。歴史の延長線上に自分たちは立っているからだ。

小説の中にでてくる「羊男」は、十二滝町を作り上げたアイヌの青年を想起させる。「羊男」は「戦争に行きたくなかった」から隠れて暮らすことにしたのだという。日露戦争で息子を奪われた悲しみと、羊に対する愛情が人間の形となって「僕」の前に現れたのではないだろうか。手にやけどのあとがあるあたりはイナゴの襲撃から身を守るために火を焚いた話を連想させるし、何よりも人間的なものと動物的なものが混じり合っているところがいかにもアイヌらしい。

 

さまざまな謎について語っていると尽きることがないから不思議だ。

次に『羊をめぐる冒険』を読むときはどのような発見があるだろうか。楽しみだ。

 

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謎が謎を呼ぶ物語。どのピースがどこにはまるのだろうか。/村上春樹著『羊をめぐる冒険』(上)(講談社文庫)

羊をめぐる冒険』は、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』に続く「青春三部作」の完結編だ。謎だらけの小説なので、謎をあらかた書き出しておいた。どのピースがどこにはまるのだろうか。ドキドキしながら読んでいる。

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村上春樹著『羊をめぐる冒険』(上)(講談社文庫)

ざっくりとした内容

*1978年9月。「僕」が友人と経営する翻訳会社は順調に業績を伸ばし、三年前からPR誌や広告関係にも手を広げていた。ある日翻訳会社に謎の男がやってくる。男の要求は「僕」が手掛けた生命保険PR誌の発行を即刻中止せよ、というものだった。PR誌に載っている写真は平凡な風景写真だ。北海道の草原と雲と木と、そして羊。いったい何の問題があるというのか?

*「僕」が使った問題の写真は、親友の「鼠」から送られてきたものだった。「この写真をどこでもいいから人目のつくところに持ち出してほしい」。モノクロ写真には背中に星印の模様がついた羊が写っていた。男は執拗にこの写真をどこで手に入れたか「僕」から聞き出そうとする。答えるのを拒否する「僕」。ついに男は脅迫まがいの手段で、星を背負った羊の居場所を「僕」自身の手で探し出すように命令する。「一ヵ月以内に羊を探しだせ。さもなければ君は終わりだ」。

*「僕」のパートナーは耳のモデルをしている女の子だ。翻訳会社を退職した「僕」は彼女と共に北海道に飛び、羊の行方を追うことにした。とはいえ、平凡な写真から一匹の羊の居場所を特定するのは並大抵ではない。写真を送ってきた「鼠」に直接訊きたいところだが、「鼠」は故郷を飛び出してからというもの日本各地を放浪していて行方不明だ。いったいどうしたらいいのだろうか。

かんたんレビュー

羊をめぐる冒険』の上巻は謎だらけである。

とりあえず、謎を並べてみる。

1、「羊」とは何か。

謎の男は戦後の政治・経済・情報の世界を牛耳る「先生」の秘書だ。「先生」は1932年の2.26事件に連座して逮捕された。1936年、刑務所から出てきた「先生」は驚異的な自己変革を遂げ右翼の大物になる。「先生」の中に「羊」が入り込み40年間住みついていたからだ、と秘書の男は言う。「羊」はその後「先生」の中から出て行った。「先生」は脳卒中で倒れ意識不明で余命いくばくもない。秘書の男は「羊」を探しだし、「羊」が何かを望んでいるのだとしたら全力を尽くしたいのだという。

2、「耳の女の子」とは何者か。

校正係、コールガール、耳のモデルを職業とする女の子。彼女も謎めいている。彼女は離婚したばかりの「僕」の前に現れ、「僕」のパートナーとなる。普段は耳と意識の通路を閉鎖しているので平凡な女の子に過ぎないが、耳を開放した状態になると非現実的な美しさを放つ。「あなたのために耳を出してもいいけれど、あなたは後悔することになるかもしれない」「しばらくの間、私のそばを離れないで」と、彼女は「僕」に約束させているが、この約束の意味は何だろうか。しかも、羊をさがす冒険が始まることも予言しているのだ。不思議な力を持つ彼女はいったい何者なのだろうか。

3、小説冒頭に出てくる「誰とでも寝ちゃう女の子」とは何者か。

この小説は人の死から始まる。村上ワールドはいつも死の匂いがする。

大学生の時、「僕」は「誰とでも寝ちゃう女の子」と出会った。彼女は「僕」とも寝るようになり、水曜日に「ピクニック」と称して「僕」の部屋にやってくるようになる。1970年11月25日。「あなたはいったい何を抱えこんでいるの?」と彼女は「僕」に唐突に訊ねる。「僕」は何かを抱え込んでいることを否定しない。うまくしゃべれないことなんだ、と彼女に言う。「僕」はいったい何を抱えこんでいるというのだろうか。

冒頭は彼女が車に轢かれて死んだ話から始まる。唐突に思える彼女の死は、なぜ冒頭に語られなければならなかったのか。

4、「僕」にとって妻はどういう存在か。

1978年7月。「僕」は妻と離婚する。「あなたのことは今でも好きよ」と言い残し、妻は他の男のもとへ去っていった。「僕」は淡々としているように見えて、何かにつけて妻のことを思い出している。一番「僕」が求めているのは妻とのつながりのようにも思えるのだが、果たしてどうだろうか。

5、「僕」の故郷の消滅はこの話全体にどう関わってくるのか。

「僕」の故郷はすっかり変わってしまった。海は埋め立てられ高層アパートが建ち並んでいる。「僕」は寒々しい風景を眺めながら、防波堤に腰をかけてビールを飲み、かつて海だった埋め立て地に空き缶を放る。そこを警備員に見つかり咎められる。このシーンは印象的な場面のひとつだ。何故空き缶なんか投げるんだと警備員に言われ、僕は答える。

「理由なんてないよ。十二年前からずっと投げてる。半ダースまとめて投げたこともあるけど、誰も文句は言わなかった」
「昔は昔だよ」と警備員は言った。「今はここは市有地で、市有地へのごみの無断投棄は禁じられてる」
僕はしばらく黙っていた。体の中で一瞬何かが震え、そして止んだ。(P161)

「僕」はここで怒りを感じている。自分の目の前から消滅してしまったものを諦めようにも何かがくすぶり続けているのだ。

6、「鼠」と「羊」の関わりはなにか。

「鼠」の手紙によれば、1978年3月の初め、彼は山に閉ざされた場所にやってきたのだという。手紙の消印は北海道だ。「僕」に「羊」の写真を送ったのは1978年5月。「僕」はこの写真を見た途端、トラブルの匂いを嗅ぎつけている。「鼠」と「羊」とはどのような関わりがあるのだろうか。

7、「僕」の飼い猫に名前がついた意味は?

「僕」は北海道に旅立つにあたって、「先生」の秘書の男に飼い猫の世話を頼んでいる。猫には名前がなかった。そこで「先生」のお雇い運転手が「『いわし』なんてどうでしょう」と提案し、猫には「いわし」という名前が授けられる。

そこから「僕」と運転手との「名前」についての議論が延々と続けられる。「僕」は「名前」について並大抵でないこだわりをみせる。これはいったいどういうことだろうか。

「つまり街やら公園やら通りやら駅やら野球場やら映画館やらにはみんな名前がついていますね。彼らは地上に固定された代償として名前を与えられたのです」
 新説だった。
「じゃあ」と僕は言った。「たとえば僕が意識を完全に放棄してどこかにきちんと固定化されたとしたら、僕にも立派な名前がつくんだろうか?」
 運転手はバックミラーの中の僕の顔をちらりと見た。どこかに罠がしかけられているんじゃないだろうかといった疑わしそうな目つきだった。「固定化といいますと?」
「つまり冷凍されちゃうとか、そういうことだよ。眠れる森の美女みたいにさ」
「だってあなたには既に名前があるでしょう?」
「そうだね」と僕は言った。「忘れてたんだ」(P264-265)

「僕」は故郷を失い、妻を失い、仕事を失い、名前があったことさえも忘れていた。羊をめぐる冒険は「僕」にどのような影響を及ぼすのだろうか。

(下巻に続く)

 

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「竜馬の運命を変えた男・勝海舟との出会い」司馬遼太郎著『竜馬がゆく』(3)(文春文庫)

福沢諭吉著『福翁自伝』に出てくる勝海舟はあまりカッコ良くない。福沢諭吉勝海舟と咸臨丸でアメリ渡航を共にした。咸臨丸の艦長は木村摂津守だが、実質的艦長は勝海舟だった。が、船にめっぽう弱い勝はこんな書かれ方をしている。

勝麟太郎という人は艦長木村の次にいて指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることはできなかった」(岩波文庫福翁自伝』P135)

咸臨丸が到着するとアメリカは歓迎の祝砲を打ってきた。こちらも応砲をすべきだろうか。ところが勝は「応砲して失敗したら恥ずかしいからダメ!」と頑固に言い張った。結局、運用方の佐々木という男が「じゃあ、俺が打ってやる」と水兵たちに指示を出して見事成功。『福翁自伝』を読むと、勝が肝っ玉の小さな男に思えてくる。

ところが『竜馬がゆく』の勝海舟はなかなかすごい男なのだ。『竜馬がゆく』を読んで勝海舟のファンになった人も多いのではないだろうか。もちろん、坂本竜馬にとっても、勝海舟との出会いは運命の出会いとなった。

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司馬遼太郎著『竜馬がゆく』(3)(文春文庫)

ざっくりとした内容

*「尊王攘夷思想」にかぶれ「開国主義者は国賊だ!」という風潮に当時の若者たちはおどらされていた。千葉道場の千葉重太郎幕臣勝海舟が開国主義者だと聞きつけ、勝を斬りに行こうと竜馬に持ち掛ける。しぶしぶと重太郎についていく竜馬。ところがいざ実物の勝海舟に会ってみると、とてつもないスケールを持った男だった。

*勝は二人に説く。「英国もロシアも軍艦を持っているから言いたいことが言える。日本も軍艦を自前で建造し、艦隊を作るべきだ。軍艦を作る金は海外貿易で稼げばいい」。この話に竜馬はのめりこんでしまう。「俺がやりたかったのはそれなんだ!」。竜馬の目指すべき方向がはっきりと形になった瞬間だった。「勝先生!弟子にして下さい!」と夢中で頼み、坂本竜馬勝海舟の弟子となったのだった。

*竜馬が勝海舟から受けた恩恵は計り知れない。築地の軍艦操練所で船の技術を学ぶことができたばかりか、元土佐藩主・山内容堂への勝による進言で脱藩の罪も許された。そして今、勝と竜馬は協力して海軍学校を作ろうとしていた。勝は幕府の許可を取り学校建設の敷地を用意する。金策と船員のリクルートは竜馬の役目だ。竜馬は越前藩主・松平春嶽に頼み、なんとか融資を取り付けることに成功したのだった。

かんたんレビュー

これまでの竜馬は「こういう方向で進もう」という思想的な道筋が見えてこなかった。竜馬は倒幕論者だ。しかし尊王攘夷だの倒幕だのを狂信的なまでに叫んでいる連中の姿を見ると、なにかしっくりこないものを感じる。尊王攘夷とは何かの悪い宗教か?テロで世の中変わるのか?何かがおかしい。

そんなモヤモヤ状態の竜馬の目の前に現れたのが勝海舟だ。倒幕論者である竜馬の運命を変えたのは、皮肉にも幕臣という立場にある人間だった。

勝の考え方は実利的だ。日本は海外貿易で金を稼ぎ、その金で日本を防衛する艦隊を作るべきだというのだ。しかも軍艦を外国から買うのではなく、自前で建造する。そのための製鉄所や工作機械を作り、技術者も育てる。

勝のことばに、竜馬は興奮を抑えきれない。やっと自分の進むべき道を見つけたからだ。いわば実利的倒幕論とでも言った方がいいかもしれない。

竜馬艦隊を持つということが、竜馬の尽きない夢であった。こういう男だが、この点だけは執念ぶかい。恋に似ている、などという程度のものではない。男子の恋は、簡明直截であるべきだと、竜馬は信じている。

船。

これのみが、生涯の念願である。船をもち軍艦をもち、艦隊を組み、そしてその威力を背景に、幕府を倒して日本に統一国家をつくりあげるのだ。(P296)

 「尊王攘夷だ!」「開国だ!」とお互いの立場にとらわれるのではなく、俯瞰して物事を見ることの重要性を竜馬は知っていた。勝の弟子になってから、竜馬は「あいつ、幕臣の勝なんかと付き合ってるぞ。思想ってもんがないのかよ」と尊王攘夷派の連中から陰口を叩かれるのだが、そんなことは小さなことだ。竜馬艦隊を率いて日本を護衛し、海外貿易でがんがん儲けて日本の国庫を豊かにしたい。それが竜馬の進むべき道だ。

 

今まで数々の対立軸を見てきた。

土佐藩における上士vs郷士

尊王攘夷派vs開国派」

「討幕派vs佐幕派公武合体派)」

ややこしいのは、尊王攘夷派=討幕派とは限らないことだ。水戸思想のように「朝廷を敬うことが強い幕府を作るのだ!」という考え方もあるので、ベン図を描くと交わっているところが出てくる。ところがこの巻では決して交わらないふたつの円が登場する。新たな対立軸だ。

それが長州藩」vs「薩摩藩だ。

どちらも関ケ原の負け組で徳川幕府の恩恵は受けていない。また、どちらも尊王攘夷思想が吹き荒れている藩でもある。「似ているからこそ嫌い」という近親憎悪の感情もあるかもしれない。

特に長州の尊王攘夷思想は過激でもはや宗教と化していた。長州は公卿の工作が巧妙で朝廷は長州思想一色だ。今や天皇の名において「攘夷を決行せよ」と幕府に命ずるようにまでなっていた。朝廷の命令を聞くために将軍はわざわざ上洛している。幕府の首脳陣も京都に移ることになった。「長州藩天皇を擁して長州幕府を作るのではないか」と薩摩藩は思いながらも兵備を整えながら静観している状況だ。「長州のいいように政局を動かされてたまるか」というプライドもあっただろう。

 

一方、京はもはや無法状態となっていた。開国論者だと分かれば、京では大根のように斬られてしまう。「勤皇志士」を名乗る人間が「天誅」と称して人を斬り、「勤皇活動のための御用金」を巻き上げるために押し込み強盗を働いている始末だった。こんなやり方で倒幕や攘夷ができるのだろうか。外国の脅威から日本を守ることができるのだろうか。

(第4巻に続く)

 

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見ておいて損はない名作映画100選の7作目。映画:ワイルドバンチ

「見ておいて損はない名作映画100選」の7作目だ。ネタバレあり。

この映画こそ映画館で見るべき映画かもしれない。メキシコの赤茶けて乾ききった大地、砂埃を立てて駆け回る男たちの汚らしさ、そして大迫力の銃撃戦。映画館の大スクリーンならひとつひとつのシーンがもっと迫ってくるだろう。

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ワイルドバンチ
(The Wild Bunch/1969/アメリカ)
監督:サム・ペキンパー
出演:ウィリアム・ホールデンアーネスト・ボーグナインロバート・ライアン

ざっくりとした内容

*20世紀初頭のアメリカ・テキサス州。パイクをリーダーとする中年強盗団は鉄道会社の金庫を襲う。パイクはこれを最後にやくざな仕事を引退するつもりだった。ところが鉄道会社に銀貨がたんまりあるという情報は彼らをおびき出すための偽情報だった。彼らの首にかかった賞金目当てに追撃してくる連中と行われる激しい銃撃戦。彼らを振り切り、パイクたちは国境を越えてメキシコに渡る。彼らの仲間であるメキシコ人の若者・エンジェルの案内で、一行はとりあえず彼の故郷の村に落ち着くことにした。

*ところが、エンジェルの故郷は政府軍によって荒らされまくっていた。マパッチ将軍に父親を殺され恋人を連れ去られたエンジェルは憤りを抑えることができない。「村に武器さえあれば抵抗できたはずなのに」。しかしパイクは「忘れろ。さもなきゃ置いてくぞ」と突き放す。その後一行はアグア・ベルデという町に移動する。そこにはマパッチ将軍の本部があった。マパッチ将軍は1万ドルの金貨と引き換えに、米軍の貨物列車から武器を強奪することを提案する。エンジェルは16箱ある武器のうち1箱だけ反政府軍に渡すことをパイクに懇願し、パイクの了承を得る。

*米軍貨物列車から武器を強奪する計画は大成功!エンジェルは約束通り反政府軍に武器を流しパイクは黙認する。しかし、この武器の横流しがマパッチ将軍にばれてしまう。エンジェルはマパッチ将軍に拘束され、凄惨なリンチを受ける。エンジェルを返してもらいたいと直談判する一行。しかしマパッチ将軍は聞き入れない。ついに彼らはたった4人で、100人以上もいるであろうマパッチ軍にどう考えても勝ち目のない戦いを挑むのだった・・・。

かんたんレビュー

映画の背景を知ると、また一味違った楽しみ方ができるかもしれない。

メキシコ革命により、ディアス独裁政権は崩壊する。ところが政権を握った自由主義者のマデロは部下のフエルタ(ウエルタ)将軍に殺害されてしまう。アメリカはフエルタ軍事政権を正当なものとは認めず反政府軍を支援。一方、メキシコ国内の石油権益に目をつけたドイツとイギリスはフエルタ政権を支持する。メキシコ国内では、カリスマ性があったマデロを殺害されたことでほとんどの革命派が反旗を翻していた。目指すはフエルタ軍事政権打倒だ。特に勢いがあったのはパンチョ・ビリャ(ビラ)率いる反政府軍だ。内戦状態でぐちゃぐちゃとなったメキシコがこの映画の背景となっている。西暦でいえば1913年くらいだろうか。第一次世界大戦も間近に迫っている。

それなのに中年強盗団の連中ときたら、クルマも飛行機も見たことがないのだ。馬を巧みに操り、ライフルをばんばん撃ち合い、マパッチ将軍の真っ赤なクルマを見て「なんだありゃ。すげー」なんて目を丸くしている。時代から取り残されたオヤジたちなのだ。

もちろん、リーダーのパイクは自分たちの存在が時代遅れであることを自覚している。そこが哀愁を誘う。「俺たちの時代は終わりだ」と自ら口にしているパイク。鉄道会社の金庫襲撃でたんまり銀貨を手に入れ、老後の資金にして引退しようと考えていたパイク。しかし、鉄道会社のヤマはしくじった。彼の引き際はいつやってくるのだろうか。

中年強盗団は酒と女と金に目がない。喧嘩になると殺し合いになりそうなほど殺気立って罵り合い、これっぽっちも仲が良さそうに見えない。しかしアメリカ軍の貨物列車から武器の強奪に成功したあたりから一体感が生まれてくる。瓶に入ったあめ色のウィスキーを回し飲みするシーンは、固めの盃を交わしているようでかっこいい。

それにしても、この貨物列車の武器強奪シーンの迫力といったらない。土煙をたてて茶色い山道を馬車で駆け抜け、橋にダイナマイトを仕掛け、追っ手を馬ごと川の中に沈めてしまうのだ。疾風怒濤の西部劇。第一次世界大戦間近であることなど忘れてしまう。彼らが略奪した武器の中に機関銃を見つけるまでは。

機関銃や戦車などの新兵器が台頭する時代は第一次世界大戦に訪れた。彼らは機関銃の威力を知ってか知らずか、この新兵器を惜しげもなくマパッチ将軍に渡してしまう。「殺ししか知らない」連中が扱うのにちょうどいい新兵器は、時代遅れの彼らにはなじまないのだ。

 

実は「殺ししか知らない連中とは仕事ができない!」と言い放ったのはパイクではなく、パイクの首を狙うソーントンの言葉だ。かつてパイクの仲間だったソーントンは、服役中のソーントンは懸賞金目当ての金持ちによって仮釈放され、一ヵ月以内にパイクら強盗団を壊滅させれば自由の身になることを約束されている。しかし一ヶ月以内に仕留めることができなければ刑務所に逆戻りだ。だから今は、ソーントンはパイクを追う側にまわっている。しかし「ただ殺せばいい」「ただ奪えばいい」というハゲタカ連中とはどこかなじまない。追手ではありながら、ソーントンも完全にパイク側の人間なのだ。

 

最後のシーンは圧巻だ。仲間のエンジェルがマパッチ将軍に凄惨なリンチを受けているのを見て、ふつふつと煮えたぎるものを押さえきれない中年強盗団。どう考えても勝ち目のない戦いなのに、ライフルを携えて彼らはたった4人で100人以上もいるであろうマパッチ軍の駐屯地に乗り込んでいくのだ。

売春宿で女を抱いた後、パイクがとなりの部屋の仲間に言う。「Let's go!」(行くぜ)。仲間のおっさんは答える。「Why not?」(もちろんさ)。このやり取りが痺れる。話し合いも相談もない。時代に取り残された彼らはついに死に場所を見つけたのだ。そしてすさまじい銃撃戦が始まる。

 

中年強盗団の中で「役立たず」呼ばわりされていたじいさんがただ一人生き残り、反政府軍を引き連れているラストもなかなかすごい。武器強奪で稼いだ金貨を持っているのだからさぞかし大きな顔もできるだろう。ソーントンも反政府軍に合流する。圧倒的な負け犬の中のさらに負け犬だった連中がしっかりと生き残る。このラストはかなり胸に来るものがあった。

 

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