こだいらぽんたの読書日記

古典多めの読書日記です。名作映画100選もあります。

他者とのつながりを失った「僕」が救済される物語/村上春樹著『羊をめぐる冒険』(下)(講談社文庫)

自分の存在は他者という鏡を通して確かめることができる。他人がいるからこそ、自分がいる。ところが他者との関わりが全く失われてしまったとき、人は自分自身の存在を確かめることはできない。

主人公の「僕」は自分自身を映し出す鏡をすべて失ってしまった。妻を失い、故郷を失い、仕事も失い、友も失った。他者とのつながりを失ってしまった時、自分の存在はどこでどうやって確かめたらいいのだろう。

羊をめぐる冒険』は自分の存在を見失ってしまった「僕」が救済される物語だ。だからこそ、この小説はまぎれもなく「僕」の物語であり、まぎれもなく青春小説なのだ。

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村上春樹著『羊をめぐる冒険』(下)(講談社文庫)

ざっくりとした内容

*背中に星印を背負った謎の「羊」を探すため、「僕」とガールフレンドは北海道・札幌へとやってきた。そして羊が写りこんでいる写真の場所が「いるかホテル」の支配人の父親がかつて所有していた土地であることを突き止める。「羊博士」と呼ばれている支配人の父親は、1936年満州の洞窟で「羊」に会い、「羊」に体の中に入られたという。そして42年前、「羊」は羊博士の中から去ってしまった。「羊抜け」の状態になると思念のみが体の中を渦巻いて放出できない地獄の状態になるという。

*謎の「羊」が写りこんでいる牧場は、今はある金持ちが別荘として所有しているらしい。この「ある金持ち」というのは「僕」の親友である鼠の父親であることに僕は気づく。そこで僕たちは、牧場を目指して「十二滝町」という地の果てにあるような辺鄙な町へと向かう。そこはかつて津軽からやってきた農民たちによって開拓された土地であったが、現在は寂れ果てて死んだような田舎町となっていた。

*ようやく十二滝町に到着した「僕」とガールフレンド。牧場はそこからさらに車で三時間走った山の上だ。緬羊飼育場の管理人にジープで連れて行ってもらうが、昨夜の雨で地盤が弱くなっているためジープは途中で通れなくなってしまう。仕方なく「僕」と彼女はジープを降り、徒歩で別荘に向かうことにした。ところが何かがおかしい。別荘の手前には不吉で嫌な予感のするカーブ。別荘に入ったとたん襲われる不思議な感覚。いったい彼らは謎の「羊」に辿り着けるのだろうか?

ぽんたの独断レビュー

上巻のレビューでは7つの疑問点を出しておいた。それに答えるかたちでレビューを進めたい。

1、「羊」とはなにか。

人間は心の奥底にグロテスクなものを持っている。他人を支配したいとか、他人の物を奪って自分のものにしたいとか、異様に嫉妬深かったりとか、人間の心の奥底をじっと見つめれば誰だって必ずこういった「悪」を抱えているものだ。それを解き放つと大変なことになる。人間の心の奥底に潜む「悪」の思念を解き放つ「何か」がたまたま「羊」の形をとって現れたのだろう。しかし「羊」そのものは善でも悪でもない。「悪」はあくまで人間の心の中にある。

2、「耳の女の子」とは何者か。

彼女の存在で「僕」はどれだけ癒されたかわからない。彼女が「僕」を特別扱いするのは「あなたが私を求めたから」だという。他者を求めることが「僕」にはまだできるのだ。そして「僕」が「自分自身の半分でしか生きていない」ことも言い当てる。「耳の女の子」は「僕」を救済される入口まで連れて行ったところで突然姿を消してしまう。ここまでがこの小説で与えられた彼女の役割だ。彼女は「僕」を入口まで連れていくことはできても、救済することまではできない。「僕」自身を救済するのは、あくまで「僕」自身にしかできないからだ。

3、小説冒頭に出てくる「誰とでも寝ちゃう女の子」とは何者か。

「誰とでも寝ちゃう女の子」も、他人とコミットできない「僕」の病を見抜いた子だ。誰とでも寝る理由を尋ねられると、彼女は「私はいろんな人を知りたいのかもしれない。あるいは私にとっての世界の成り立ちかたのようなものをね」と語っている。彼女は男と寝ることによって自分と世界のつながりを確かめている。そんな彼女だからこそ「僕」と寝ることで、「僕」が何かに悩んでいることに気づくのだ。「あなたはいったい何を抱え込んでいるの?」と。「私を殺したいと思ったことある?」と訊ねたのも、他人を殺すことによって自分の存在を確かめたいと思ったことがあるかという問いかけだろう。

4、「僕」にとって妻はどういう存在か。

「僕」は妻と離婚する。しかし「僕」が誰よりも関わり合いを持ちたかったのが妻だったはずだ。彼らは生活を営むうえでの「役割分担」はうまくいった。しかし機能的なものだけでは夫婦はうまくいかない。結婚生活を続けるには互いの嫌な部分を徹底的にさらけ出す必要がある。「僕」はそこに気づかない。せめて妻とのセックスの数を記録しておけばよかったと途方もないことを考える始末だ。「僕に必要なものは正確に数字であらわせるリアリティーなのだ」と。しかし他者との関係を数字で表すことはできないのだ。

5、「僕」の故郷の消滅はこの話全体にどう関わってくるのか。

「僕」の故郷の海は埋め立てられ、街は消滅しつつある。自分のルーツが消え去ることは自分の存在を確かめる何かがまたひとつ消滅してしまうことを示している。

しかしまだ埋め立てられていない50メートル分の砂浜と「ジェイズ・バー」が残っていることが「僕」の救いとなる。最後に鼠と「僕」を「ジェイズ・バー」の共同経営者にしてほしいとジェイに頼んだのは、「ジェイズ・バー」こそが彼らに残された自己の存在を証明する最後の砦のようなものだからだろう。50メートル分の砂浜の前で「僕」が涙を流すラスト・シーンも見逃せない。

6、「鼠」と「羊」の関わりは何か。

「羊」自体は善でも悪でも何でもなく、人間の奥底に潜む「何か」を呼び覚ます装置にしか過ぎない。鼠も「僕」と同じく、他者との関わりを持つことができないことで自分自身の存在を確かめることができない病に落ち込んでいた。(だから鼠の彼女は、「僕」と鼠の雰囲気が似ていると言い当てたのだ。)他者を鏡として使うことができないなら、自分の心の深いところに下りて行って、暗闇をじっと覗き込むしかない。ところが鼠は自分の心の深淵を覗き込んで、自らの持つグロテスクさに気づいてしまう。それを開放すると自分が自分でなくなってしまうことを鼠は知っていた。だからこそ、鼠の自分自身の存在を証明する方法は死ぬことしかなかった。「我々はどうやら同じ材料から全くべつのものを作り上げてしまったようだね」と鼠は「僕」に語りかけている。鼠は「死」によって自分自身の存在を確かめ、僕は「生」によって自分自身の存在を確かめたのだ。

7、「僕」の飼い猫に名前がついた意味は?

飼い猫に名前をつけないなんて、この一件だけでも「僕」の病が相当深刻だったことがわかろうというものだ。人は身の回りのものに名前をつけることで、世界とのつながりを持つ。飼い猫はその他大勢の猫とは違った存在なのだから。猫が「いわし」と名付けられたことで、「僕」と猫、ひいては世界との距離はぐんと縮まったはずだ。

最後に:「羊男」とは?

十二滝町の歴史の話も興味深い。自分自身の存在がどういうものかを確認したければ、いきおい祖先が辿ってきた歴史にまでさかのぼらなければならない。歴史の延長線上に自分たちは立っているからだ。

小説の中にでてくる「羊男」は、十二滝町を作り上げたアイヌの青年を想起させる。「羊男」は「戦争に行きたくなかった」から隠れて暮らすことにしたのだという。日露戦争で息子を奪われた悲しみと、羊に対する愛情が人間の形となって「僕」の前に現れたのではないだろうか。手にやけどのあとがあるあたりはイナゴの襲撃から身を守るために火を焚いた話を連想させるし、何よりも人間的なものと動物的なものが混じり合っているところがいかにもアイヌらしい。

 

さまざまな謎について語っていると尽きることがないから不思議だ。

次に『羊をめぐる冒険』を読むときはどのような発見があるだろうか。楽しみだ。

 

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謎が謎を呼ぶ物語。どのピースがどこにはまるのだろうか。/村上春樹著『羊をめぐる冒険』(上)(講談社文庫)

羊をめぐる冒険』は、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』に続く「青春三部作」の完結編だ。謎だらけの小説なので、謎をあらかた書き出しておいた。どのピースがどこにはまるのだろうか。ドキドキしながら読んでいる。

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村上春樹著『羊をめぐる冒険』(上)(講談社文庫)

ざっくりとした内容

*1978年9月。「僕」が友人と経営する翻訳会社は順調に業績を伸ばし、三年前からPR誌や広告関係にも手を広げていた。ある日翻訳会社に謎の男がやってくる。男の要求は「僕」が手掛けた生命保険PR誌の発行を即刻中止せよ、というものだった。PR誌に載っている写真は平凡な風景写真だ。北海道の草原と雲と木と、そして羊。いったい何の問題があるというのか?

*「僕」が使った問題の写真は、親友の「鼠」から送られてきたものだった。「この写真をどこでもいいから人目のつくところに持ち出してほしい」。モノクロ写真には背中に星印の模様がついた羊が写っていた。男は執拗にこの写真をどこで手に入れたか「僕」から聞き出そうとする。答えるのを拒否する「僕」。ついに男は脅迫まがいの手段で、星を背負った羊の居場所を「僕」自身の手で探し出すように命令する。「一ヵ月以内に羊を探しだせ。さもなければ君は終わりだ」。

*「僕」のパートナーは耳のモデルをしている女の子だ。翻訳会社を退職した「僕」は彼女と共に北海道に飛び、羊の行方を追うことにした。とはいえ、平凡な写真から一匹の羊の居場所を特定するのは並大抵ではない。写真を送ってきた「鼠」に直接訊きたいところだが、「鼠」は故郷を飛び出してからというもの日本各地を放浪していて行方不明だ。いったいどうしたらいいのだろうか。

かんたんレビュー

羊をめぐる冒険』の上巻は謎だらけである。

とりあえず、謎を並べてみる。

1、「羊」とは何か。

謎の男は戦後の政治・経済・情報の世界を牛耳る「先生」の秘書だ。「先生」は1932年の2.26事件に連座して逮捕された。1936年、刑務所から出てきた「先生」は驚異的な自己変革を遂げ右翼の大物になる。「先生」の中に「羊」が入り込み40年間住みついていたからだ、と秘書の男は言う。「羊」はその後「先生」の中から出て行った。「先生」は脳卒中で倒れ意識不明で余命いくばくもない。秘書の男は「羊」を探しだし、「羊」が何かを望んでいるのだとしたら全力を尽くしたいのだという。

2、「耳の女の子」とは何者か。

校正係、コールガール、耳のモデルを職業とする女の子。彼女も謎めいている。彼女は離婚したばかりの「僕」の前に現れ、「僕」のパートナーとなる。普段は耳と意識の通路を閉鎖しているので平凡な女の子に過ぎないが、耳を開放した状態になると非現実的な美しさを放つ。「あなたのために耳を出してもいいけれど、あなたは後悔することになるかもしれない」「しばらくの間、私のそばを離れないで」と、彼女は「僕」に約束させているが、この約束の意味は何だろうか。しかも、羊をさがす冒険が始まることも予言しているのだ。不思議な力を持つ彼女はいったい何者なのだろうか。

3、小説冒頭に出てくる「誰とでも寝ちゃう女の子」とは何者か。

この小説は人の死から始まる。村上ワールドはいつも死の匂いがする。

大学生の時、「僕」は「誰とでも寝ちゃう女の子」と出会った。彼女は「僕」とも寝るようになり、水曜日に「ピクニック」と称して「僕」の部屋にやってくるようになる。1970年11月25日。「あなたはいったい何を抱えこんでいるの?」と彼女は「僕」に唐突に訊ねる。「僕」は何かを抱え込んでいることを否定しない。うまくしゃべれないことなんだ、と彼女に言う。「僕」はいったい何を抱えこんでいるというのだろうか。

冒頭は彼女が車に轢かれて死んだ話から始まる。唐突に思える彼女の死は、なぜ冒頭に語られなければならなかったのか。

4、「僕」にとって妻はどういう存在か。

1978年7月。「僕」は妻と離婚する。「あなたのことは今でも好きよ」と言い残し、妻は他の男のもとへ去っていった。「僕」は淡々としているように見えて、何かにつけて妻のことを思い出している。一番「僕」が求めているのは妻とのつながりのようにも思えるのだが、果たしてどうだろうか。

5、「僕」の故郷の消滅はこの話全体にどう関わってくるのか。

「僕」の故郷はすっかり変わってしまった。海は埋め立てられ高層アパートが建ち並んでいる。「僕」は寒々しい風景を眺めながら、防波堤に腰をかけてビールを飲み、かつて海だった埋め立て地に空き缶を放る。そこを警備員に見つかり咎められる。このシーンは印象的な場面のひとつだ。何故空き缶なんか投げるんだと警備員に言われ、僕は答える。

「理由なんてないよ。十二年前からずっと投げてる。半ダースまとめて投げたこともあるけど、誰も文句は言わなかった」
「昔は昔だよ」と警備員は言った。「今はここは市有地で、市有地へのごみの無断投棄は禁じられてる」
僕はしばらく黙っていた。体の中で一瞬何かが震え、そして止んだ。(P161)

「僕」はここで怒りを感じている。自分の目の前から消滅してしまったものを諦めようにも何かがくすぶり続けているのだ。

6、「鼠」と「羊」の関わりはなにか。

「鼠」の手紙によれば、1978年3月の初め、彼は山に閉ざされた場所にやってきたのだという。手紙の消印は北海道だ。「僕」に「羊」の写真を送ったのは1978年5月。「僕」はこの写真を見た途端、トラブルの匂いを嗅ぎつけている。「鼠」と「羊」とはどのような関わりがあるのだろうか。

7、「僕」の飼い猫に名前がついた意味は?

「僕」は北海道に旅立つにあたって、「先生」の秘書の男に飼い猫の世話を頼んでいる。猫には名前がなかった。そこで「先生」のお雇い運転手が「『いわし』なんてどうでしょう」と提案し、猫には「いわし」という名前が授けられる。

そこから「僕」と運転手との「名前」についての議論が延々と続けられる。「僕」は「名前」について並大抵でないこだわりをみせる。これはいったいどういうことだろうか。

「つまり街やら公園やら通りやら駅やら野球場やら映画館やらにはみんな名前がついていますね。彼らは地上に固定された代償として名前を与えられたのです」
 新説だった。
「じゃあ」と僕は言った。「たとえば僕が意識を完全に放棄してどこかにきちんと固定化されたとしたら、僕にも立派な名前がつくんだろうか?」
 運転手はバックミラーの中の僕の顔をちらりと見た。どこかに罠がしかけられているんじゃないだろうかといった疑わしそうな目つきだった。「固定化といいますと?」
「つまり冷凍されちゃうとか、そういうことだよ。眠れる森の美女みたいにさ」
「だってあなたには既に名前があるでしょう?」
「そうだね」と僕は言った。「忘れてたんだ」(P264-265)

「僕」は故郷を失い、妻を失い、仕事を失い、名前があったことさえも忘れていた。羊をめぐる冒険は「僕」にどのような影響を及ぼすのだろうか。

(下巻に続く)

 

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「竜馬の運命を変えた男・勝海舟との出会い」司馬遼太郎著『竜馬がゆく』(3)(文春文庫)

福沢諭吉著『福翁自伝』に出てくる勝海舟はあまりカッコ良くない。福沢諭吉勝海舟と咸臨丸でアメリ渡航を共にした。咸臨丸の艦長は木村摂津守だが、実質的艦長は勝海舟だった。が、船にめっぽう弱い勝はこんな書かれ方をしている。

勝麟太郎という人は艦長木村の次にいて指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることはできなかった」(岩波文庫福翁自伝』P135)

咸臨丸が到着するとアメリカは歓迎の祝砲を打ってきた。こちらも応砲をすべきだろうか。ところが勝は「応砲して失敗したら恥ずかしいからダメ!」と頑固に言い張った。結局、運用方の佐々木という男が「じゃあ、俺が打ってやる」と水兵たちに指示を出して見事成功。『福翁自伝』を読むと、勝が肝っ玉の小さな男に思えてくる。

ところが『竜馬がゆく』の勝海舟はなかなかすごい男なのだ。『竜馬がゆく』を読んで勝海舟のファンになった人も多いのではないだろうか。もちろん、坂本竜馬にとっても、勝海舟との出会いは運命の出会いとなった。

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司馬遼太郎著『竜馬がゆく』(3)(文春文庫)

ざっくりとした内容

*「尊王攘夷思想」にかぶれ「開国主義者は国賊だ!」という風潮に当時の若者たちはおどらされていた。千葉道場の千葉重太郎幕臣勝海舟が開国主義者だと聞きつけ、勝を斬りに行こうと竜馬に持ち掛ける。しぶしぶと重太郎についていく竜馬。ところがいざ実物の勝海舟に会ってみると、とてつもないスケールを持った男だった。

*勝は二人に説く。「英国もロシアも軍艦を持っているから言いたいことが言える。日本も軍艦を自前で建造し、艦隊を作るべきだ。軍艦を作る金は海外貿易で稼げばいい」。この話に竜馬はのめりこんでしまう。「俺がやりたかったのはそれなんだ!」。竜馬の目指すべき方向がはっきりと形になった瞬間だった。「勝先生!弟子にして下さい!」と夢中で頼み、坂本竜馬勝海舟の弟子となったのだった。

*竜馬が勝海舟から受けた恩恵は計り知れない。築地の軍艦操練所で船の技術を学ぶことができたばかりか、元土佐藩主・山内容堂への勝による進言で脱藩の罪も許された。そして今、勝と竜馬は協力して海軍学校を作ろうとしていた。勝は幕府の許可を取り学校建設の敷地を用意する。金策と船員のリクルートは竜馬の役目だ。竜馬は越前藩主・松平春嶽に頼み、なんとか融資を取り付けることに成功したのだった。

かんたんレビュー

これまでの竜馬は「こういう方向で進もう」という思想的な道筋が見えてこなかった。竜馬は倒幕論者だ。しかし尊王攘夷だの倒幕だのを狂信的なまでに叫んでいる連中の姿を見ると、なにかしっくりこないものを感じる。尊王攘夷とは何かの悪い宗教か?テロで世の中変わるのか?何かがおかしい。

そんなモヤモヤ状態の竜馬の目の前に現れたのが勝海舟だ。倒幕論者である竜馬の運命を変えたのは、皮肉にも幕臣という立場にある人間だった。

勝の考え方は実利的だ。日本は海外貿易で金を稼ぎ、その金で日本を防衛する艦隊を作るべきだというのだ。しかも軍艦を外国から買うのではなく、自前で建造する。そのための製鉄所や工作機械を作り、技術者も育てる。

勝のことばに、竜馬は興奮を抑えきれない。やっと自分の進むべき道を見つけたからだ。いわば実利的倒幕論とでも言った方がいいかもしれない。

竜馬艦隊を持つということが、竜馬の尽きない夢であった。こういう男だが、この点だけは執念ぶかい。恋に似ている、などという程度のものではない。男子の恋は、簡明直截であるべきだと、竜馬は信じている。

船。

これのみが、生涯の念願である。船をもち軍艦をもち、艦隊を組み、そしてその威力を背景に、幕府を倒して日本に統一国家をつくりあげるのだ。(P296)

 「尊王攘夷だ!」「開国だ!」とお互いの立場にとらわれるのではなく、俯瞰して物事を見ることの重要性を竜馬は知っていた。勝の弟子になってから、竜馬は「あいつ、幕臣の勝なんかと付き合ってるぞ。思想ってもんがないのかよ」と尊王攘夷派の連中から陰口を叩かれるのだが、そんなことは小さなことだ。竜馬艦隊を率いて日本を護衛し、海外貿易でがんがん儲けて日本の国庫を豊かにしたい。それが竜馬の進むべき道だ。

 

今まで数々の対立軸を見てきた。

土佐藩における上士vs郷士

尊王攘夷派vs開国派」

「討幕派vs佐幕派公武合体派)」

ややこしいのは、尊王攘夷派=討幕派とは限らないことだ。水戸思想のように「朝廷を敬うことが強い幕府を作るのだ!」という考え方もあるので、ベン図を描くと交わっているところが出てくる。ところがこの巻では決して交わらないふたつの円が登場する。新たな対立軸だ。

それが長州藩」vs「薩摩藩だ。

どちらも関ケ原の負け組で徳川幕府の恩恵は受けていない。また、どちらも尊王攘夷思想が吹き荒れている藩でもある。「似ているからこそ嫌い」という近親憎悪の感情もあるかもしれない。

特に長州の尊王攘夷思想は過激でもはや宗教と化していた。長州は公卿の工作が巧妙で朝廷は長州思想一色だ。今や天皇の名において「攘夷を決行せよ」と幕府に命ずるようにまでなっていた。朝廷の命令を聞くために将軍はわざわざ上洛している。幕府の首脳陣も京都に移ることになった。「長州藩天皇を擁して長州幕府を作るのではないか」と薩摩藩は思いながらも兵備を整えながら静観している状況だ。「長州のいいように政局を動かされてたまるか」というプライドもあっただろう。

 

一方、京はもはや無法状態となっていた。開国論者だと分かれば、京では大根のように斬られてしまう。「勤皇志士」を名乗る人間が「天誅」と称して人を斬り、「勤皇活動のための御用金」を巻き上げるために押し込み強盗を働いている始末だった。こんなやり方で倒幕や攘夷ができるのだろうか。外国の脅威から日本を守ることができるのだろうか。

(第4巻に続く)

 

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見ておいて損はない名作映画100選の7作目。映画:ワイルドバンチ

「見ておいて損はない名作映画100選」の7作目だ。ネタバレあり。

この映画こそ映画館で見るべき映画かもしれない。メキシコの赤茶けて乾ききった大地、砂埃を立てて駆け回る男たちの汚らしさ、そして大迫力の銃撃戦。映画館の大スクリーンならひとつひとつのシーンがもっと迫ってくるだろう。

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ワイルドバンチ
(The Wild Bunch/1969/アメリカ)
監督:サム・ペキンパー
出演:ウィリアム・ホールデンアーネスト・ボーグナインロバート・ライアン

ざっくりとした内容

*20世紀初頭のアメリカ・テキサス州。パイクをリーダーとする中年強盗団は鉄道会社の金庫を襲う。パイクはこれを最後にやくざな仕事を引退するつもりだった。ところが鉄道会社に銀貨がたんまりあるという情報は彼らをおびき出すための偽情報だった。彼らの首にかかった賞金目当てに追撃してくる連中と行われる激しい銃撃戦。彼らを振り切り、パイクたちは国境を越えてメキシコに渡る。彼らの仲間であるメキシコ人の若者・エンジェルの案内で、一行はとりあえず彼の故郷の村に落ち着くことにした。

*ところが、エンジェルの故郷は政府軍によって荒らされまくっていた。マパッチ将軍に父親を殺され恋人を連れ去られたエンジェルは憤りを抑えることができない。「村に武器さえあれば抵抗できたはずなのに」。しかしパイクは「忘れろ。さもなきゃ置いてくぞ」と突き放す。その後一行はアグア・ベルデという町に移動する。そこにはマパッチ将軍の本部があった。マパッチ将軍は1万ドルの金貨と引き換えに、米軍の貨物列車から武器を強奪することを提案する。エンジェルは16箱ある武器のうち1箱だけ反政府軍に渡すことをパイクに懇願し、パイクの了承を得る。

*米軍貨物列車から武器を強奪する計画は大成功!エンジェルは約束通り反政府軍に武器を流しパイクは黙認する。しかし、この武器の横流しがマパッチ将軍にばれてしまう。エンジェルはマパッチ将軍に拘束され、凄惨なリンチを受ける。エンジェルを返してもらいたいと直談判する一行。しかしマパッチ将軍は聞き入れない。ついに彼らはたった4人で、100人以上もいるであろうマパッチ軍にどう考えても勝ち目のない戦いを挑むのだった・・・。

かんたんレビュー

映画の背景を知ると、また一味違った楽しみ方ができるかもしれない。

メキシコ革命により、ディアス独裁政権は崩壊する。ところが政権を握った自由主義者のマデロは部下のフエルタ(ウエルタ)将軍に殺害されてしまう。アメリカはフエルタ軍事政権を正当なものとは認めず反政府軍を支援。一方、メキシコ国内の石油権益に目をつけたドイツとイギリスはフエルタ政権を支持する。メキシコ国内では、カリスマ性があったマデロを殺害されたことでほとんどの革命派が反旗を翻していた。目指すはフエルタ軍事政権打倒だ。特に勢いがあったのはパンチョ・ビリャ(ビラ)率いる反政府軍だ。内戦状態でぐちゃぐちゃとなったメキシコがこの映画の背景となっている。西暦でいえば1913年くらいだろうか。第一次世界大戦も間近に迫っている。

それなのに中年強盗団の連中ときたら、クルマも飛行機も見たことがないのだ。馬を巧みに操り、ライフルをばんばん撃ち合い、マパッチ将軍の真っ赤なクルマを見て「なんだありゃ。すげー」なんて目を丸くしている。時代から取り残されたオヤジたちなのだ。

もちろん、リーダーのパイクは自分たちの存在が時代遅れであることを自覚している。そこが哀愁を誘う。「俺たちの時代は終わりだ」と自ら口にしているパイク。鉄道会社の金庫襲撃でたんまり銀貨を手に入れ、老後の資金にして引退しようと考えていたパイク。しかし、鉄道会社のヤマはしくじった。彼の引き際はいつやってくるのだろうか。

中年強盗団は酒と女と金に目がない。喧嘩になると殺し合いになりそうなほど殺気立って罵り合い、これっぽっちも仲が良さそうに見えない。しかしアメリカ軍の貨物列車から武器の強奪に成功したあたりから一体感が生まれてくる。瓶に入ったあめ色のウィスキーを回し飲みするシーンは、固めの盃を交わしているようでかっこいい。

それにしても、この貨物列車の武器強奪シーンの迫力といったらない。土煙をたてて茶色い山道を馬車で駆け抜け、橋にダイナマイトを仕掛け、追っ手を馬ごと川の中に沈めてしまうのだ。疾風怒濤の西部劇。第一次世界大戦間近であることなど忘れてしまう。彼らが略奪した武器の中に機関銃を見つけるまでは。

機関銃や戦車などの新兵器が台頭する時代は第一次世界大戦に訪れた。彼らは機関銃の威力を知ってか知らずか、この新兵器を惜しげもなくマパッチ将軍に渡してしまう。「殺ししか知らない」連中が扱うのにちょうどいい新兵器は、時代遅れの彼らにはなじまないのだ。

 

実は「殺ししか知らない連中とは仕事ができない!」と言い放ったのはパイクではなく、パイクの首を狙うソーントンの言葉だ。かつてパイクの仲間だったソーントンは、服役中のソーントンは懸賞金目当ての金持ちによって仮釈放され、一ヵ月以内にパイクら強盗団を壊滅させれば自由の身になることを約束されている。しかし一ヶ月以内に仕留めることができなければ刑務所に逆戻りだ。だから今は、ソーントンはパイクを追う側にまわっている。しかし「ただ殺せばいい」「ただ奪えばいい」というハゲタカ連中とはどこかなじまない。追手ではありながら、ソーントンも完全にパイク側の人間なのだ。

 

最後のシーンは圧巻だ。仲間のエンジェルがマパッチ将軍に凄惨なリンチを受けているのを見て、ふつふつと煮えたぎるものを押さえきれない中年強盗団。どう考えても勝ち目のない戦いなのに、ライフルを携えて彼らはたった4人で100人以上もいるであろうマパッチ軍の駐屯地に乗り込んでいくのだ。

売春宿で女を抱いた後、パイクがとなりの部屋の仲間に言う。「Let's go!」(行くぜ)。仲間のおっさんは答える。「Why not?」(もちろんさ)。このやり取りが痺れる。話し合いも相談もない。時代に取り残された彼らはついに死に場所を見つけたのだ。そしてすさまじい銃撃戦が始まる。

 

中年強盗団の中で「役立たず」呼ばわりされていたじいさんがただ一人生き残り、反政府軍を引き連れているラストもなかなかすごい。武器強奪で稼いだ金貨を持っているのだからさぞかし大きな顔もできるだろう。ソーントンも反政府軍に合流する。圧倒的な負け犬の中のさらに負け犬だった連中がしっかりと生き残る。このラストはかなり胸に来るものがあった。

 

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「テロじゃ世の中変わらない。だったらどうすべきなのか?」司馬遼太郎著『竜馬がゆく』(2)(文春文庫)

尊王攘夷派(外国は出て行け派)vs佐幕派(とりあえず開国派)の対立が徐々に鮮明になっていく。竜馬は尊王攘夷を唱える過激派にシンパシーが持てない。幕府は倒したい。しかし、佐幕派を殺害するテロの手法で世の中は本当に変わるのだろうか。

竜馬にはまだ具体的な絵は見えてこない。竜馬はどこにゆくのだろうか?

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司馬遼太郎著『竜馬がゆく』(2)(文春文庫)

ざっくりとした内容

*当時の若者の流行思想は「尊王攘夷」だ。ところが相変わらず竜馬はノンポリだ。親友の武市半平太も「あいつには思想がない!」とイライラしている。そんな竜馬の江戸留学期間は終わり、彼は土佐に帰国することになった。帰国途中、竜馬は朝廷の家臣・水原播磨介と出会う。播磨介は大老井伊直弼排斥を含む水戸からの密書を朝廷に持ち帰る途中だった。命がけで任務を遂行しようとする播磨介の姿を見て、竜馬の「何か」が変わる。土佐に帰った竜馬は突然学問を始め、難しい書物にもがんがん体当たりするようになる。

1860年大老井伊直弼が水戸・薩摩の志士たちに暗殺されるという大事件が起こる。この事件をきっかけに「幕府は意外とたいしたことないんじゃないか?」という空気が広まる。過激な尊王攘夷思想を持つ武市半平太は、土佐の志士を募って「土佐勤皇党」を作る。「薩長土の有志連合で幕府を倒そう!」というわけで、薩摩・長州の志士とも連絡を取っている武市。しかし、どの藩も佐幕派の家老たちが権力を握っていてうまくいかない。

*ついに武市半平太は、クーデターを決行することにした。佐幕派の頑固家老・吉田東洋を暗殺し、東洋に排斥された旧守派を押し立てて政権を取るのだ。そして、裏で武市が旧守派を操り土佐藩を生まれ変わらせるのだ。しかし、そのアイデアに竜馬は反対だった。旧態依然とした土佐藩を生まれ変わらせるのは無理だ。こんな藩は見捨てて外からの改革を目指すべきではないか。しかし、クーデターは決行され、吉田東洋は斬られる。一方、竜馬は土佐藩を見捨てた。     脱藩である。

 

かんたんレビュー

この巻では、ノンポリだった坂本竜馬がついに思想というものを持つようになり、「こんな腐れ藩、ダメだ」と土佐藩を見限って脱藩するまでが書かれている。竜馬は尊王攘夷派ではない。倒幕論者であり、開国主義者であり、同時に「土佐藩なんか消滅しろ。藩なんか時代遅れだ」とも思っている。そこが土佐藩を立て直そうとした武市半平太との大きな違いだ。

この巻でも大きな対立軸が現れる。

1.土佐藩における「上士」vs「郷士

第1巻から何度も繰り返されている対立軸だ。上士は関ケ原の合戦で勝ち組になった山内家の子孫、郷士は負け組の長宗我部家の子孫だ。身分差別は厳しく、郷士は上士に無礼討ちにされても文句が言えない。郷士たちの怒りは爆発寸前だ。

2.「尊王攘夷派」vs「佐幕派(体制派)」

武市半平太薩長土の勤皇派と連絡を取ることで、三藩連合による倒幕を考えていた。ところが、各藩の権力者たちは頑固な佐幕派だ。土佐家老の吉田東洋、長州家老の長井雅楽(うた)、薩摩藩主豊信の父親である島津久光らに押さえられ、勤皇派は身動きがとれない。そこで「現状を打破するにはクーデターを敢行するしかない!吉田東洋を斬って政権を取ろう」と武市半平太は決意する。吉田東洋は教養が深く、藩政では次々と斬新な政策を実行して富国強兵策を目指し、有能な人材をどんどん登用する一方で、容赦なく無能な人間を次々と切り捨てた。この態度が多くの敵を作った。

3.「吉田東洋派」vs「反吉田東洋派」

吉田東洋派」には、東洋に見出された後藤象二郎・乾退助(板垣退助)などの新官僚がいる。一方「反吉田東洋派」は、東洋から無能の烙印を押され、排斥されたどうしようもない連中だ。武市半平太はその無能軍団を権力の座に押し上げることでクーデターを成功させようとした。そして東洋は斬られ、無能軍団は権力の座についた。しかしこの体制で土佐藩は本当に生まれ変わるのだろうか。

竜馬は土佐藩の改革には全く興味がない。藩という器そのものが時代遅れだと思っている。そこでとりあえず脱藩しようと決意し、同志である沢村惣之丞と共に土佐を抜けるのだ。土佐を抜けるまでの山道は相当険しかったようだ。

以前、高知県の檮原(ゆすはら)という場所を訪れたことがある。ここには「龍馬脱藩の道」が残っている。忘れられないほど素晴らしいところだった。

 

明治維新の役者も揃いつつある。第1巻ではすでに桂小五郎が登場し、第2巻では中岡慎太郎、久坂玄端が登場する。第3巻では誰が登場するだろうか。

(第3巻に続く)

 

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生きることは何かを失い続けるだけの日々のことなのか?/村上春樹著『1973年のピンボール』(講談社文庫)

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の続編だ。

時は流れて1973年。主人公の「僕」は大学卒業後、友人と翻訳を扱う会社を立ち上げた。仕事はうまくいっている。一方、親友の「鼠」は大学中退後もずっと地元に残っている。状況は違えど、「僕」と「鼠」は似たような苦しみを抱えている。生きていくことは、何かを失い続けるだけの日々のことなのだろうか。

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村上春樹著『1973年のピンボール』(講談社文庫)

ざっくりとした内容

*「僕」は、大学一年生の時恋人の直子が自殺するという辛い出来事に遭遇する。彼女を愛していた「僕」はふさぎこみ、大学にも行かず、毎日ゲームセンターに通いつめ、ピンボールに取りつかれたようになる。型は、3フリッパーの「スペースシップ」だ。ところがゲームセンターは突然取り壊され、「僕」は暗い心を抱えたまま街に放り出される。1970年の冬のことだった。直子の死によって「僕」の時は止まったままだ。

*1973年9月。大学を卒業した「僕」は、友人と共に翻訳専門の小さな事務所を立ち上げていた。会社はうまく回り、平和な日々が続く。しかし、「僕」は繰り返しの毎日に虚しさを感じ始めていた。相変わらず時は止まったまま、心は乾ききったままだ。そんな時、あの時夢中になったピンボール・マシーンが「僕」を呼んでいるような気がした。3フリッパーの「スペースシップ」。「僕」は「彼女」を捜すことに必死になる。

*「鼠」は大学中退後、ジェイズ・バーに通いつめ、孤独な中国人マスターのジェイを前にビールを飲む日々を送っている。大学を辞めてからずっと、時間は止まったままで、相変わらず何ひとつ得ることのない日々が続く。25年間の人生で、自分はどこで間違えたのか?付き合っていた彼女は一瞬優しさのようなものを思い出させてくれたが、そんな彼女とも一方的に別れてしまう「鼠」。そしてジェイにも、この街を出ていくので、バーには再び来ないことを伝えるのだった。

 

かんたんレビュー

この小説は、東京に暮らす「僕」と、地元に暮らす「鼠」とのパラレル構造で進行する。彼らはどちらも、似たような苦しみを抱えている。繰り返しの毎日に疲れ切っており、心は乾ききっている。しかし、ふたりが迎えた結末は全く違ったものとなる。

 

生きるということは何かを失い続けることなのだろうか。

小説の冒頭から匂わされるのは「死」のイメージだ。「僕」の恋人・直子の家の設計者は肺炎で死んだ。井戸を掘ってくれた職人は電車にひかれて死んだ。そして直子も死んでしまったことが明かされる。(前作『風の歌を聴け』から、直子は自殺したことがわかる。)このように、いきなり「死」の話が連続で淡々と語られる。生き続けるということは、大切なものを失い、大切な人も失うことだ。

「鼠」は「失い続けること」の虚無感に耐えられない。どうせ無くなってしまうものに愛情は持てない、という考え方だ。人も街もどんどん変わっていこうとするが、変わり続けることにどんな意味があるというのだろうか。「鼠」は「どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程にすぎない」と言い放つ。

「だから俺はそんな風に嬉々として無に向かおうとする連中にひとかけらの愛情も好意も持てなかった。・・・この街にもね」(P143)

永遠に存在するものなんてあり得ない。ここから来る虚無感が「鼠」を打ちのめす。変化するものから取り残され、「鼠」は居場所がなくなってしまう。

 

一方、「僕」はどうか。

「僕」は自分で立ち上げた会社も上手く行き、幸せな日々を送っているように見える。しかし、心の中は「鼠」とたいして変わらない。同じ毎日の繰り返しに疲れ切っている。時間の感覚だってない。だから何も感じないようにしている。仕事が面白いとかつまらないとか、寂しいとか、何かを欲しいとか、そういったものを感じないようにしている。感じないようにすることが「僕」の生きる手段だからだ。

ところが、そんな「僕」の前に不思議な「救世主」が現れる。双子の女性だ。彼女たちは、ある朝目を覚ました「僕」の両隣で寝ていたのだ。名前もなければ見わけもつかない。この日から「僕」は双子と一緒に暮らすようになった。彼女たちは「僕」の心のエネルギーの供給源が枯れかけていることを指摘する。電話の配電盤のように、寿命が来たら取り替えなくてはならない。最後に彼女たちのおかげで「僕」は怒りの感情までも取り戻す。水までもたっぷり飲まされる。(ジェイに「水を飲め」と忠告された「鼠」は最後まで飲むことができなかったのに。)ずっと自分の暗い闇と向き合っていた「僕」だったが、ようやく「出口」を見いだした時、彼女たちとの別れが来る。

そして、何よりも「僕」とピンボールとの再会は実に感動的で、一番のクライマックスだ。

「僕」が捜しに捜しまわった3フリッパーの「スペースシップ」だが、この台はあるピンボールマニアによって冷凍倉庫に保管されていたことが判明する。マニアが所有するピンボール・マシーンはなんと計78台だ。「僕」が結局この冷凍倉庫に入ることができるのだが、寒々とした部屋には78台のピンボール・マシーンが並んでいた。ただ並んでいるだけのピンボール・マシーンは、まるで「死」を感じさせる。しかし、電源を入れた時、78台のピンボール・マシーンは生き生きとよみがえるのだ。

「僕」の捜していた3フリッパーの「スペースシップ」は列の奥にあった。「僕」はピンボール・マシーンに語りかける。まるで、死んでしまった直子に語りかけるかのように。自分たちの過ごしたはかない日々は消えてしまった。しかし、それでも残っているものは確かにある。

僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその緩い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光ともに歩むだろう。(P166)

私はこのくだりを何度も読んだ。

生きるということは、絶えず何かを失い続けることだ。大切な人との別れもそのひとつだろう。死んだ人の存在や想いは、確かに存在したのに、いつかは消えてなくなってしまう。生きている人の記憶にかろうじてとどまるものの、時が立てば思い出すことさえ困難になる。

それでも残っている淡い光のようなものは確かにある。「僕」は3フリッパーの「スペースシップ」との対話でそれを確認したのだ。世の中には決して失われないものがある。「僕」はまさに永遠にそっくりな何かを見たのだ。

 

ピンボールはリプレイ、リプレイ、リプレイ・・・で、特に得るものは何もない。コインだの時間だのと失うものはたくさんある。まるで「僕」が飽き飽きしていた繰り返しの毎日そのものだ。そんなピンボールとの再会で、たいしてドラマチックでもない退屈な毎日をどのように生きるのか、失ったものとどのように寄り添って生きるのか、「僕」は覚悟を決めることができた。

「再び倉庫を横切り、階段を上がり、電灯のスイッチを切って扉を後手に閉めるまでの長い時間、僕は後ろを振り向かなかった。一度も振り向かなかった」(P167)

その覚悟のほどがわかろうというものだ。実に力強い決着のつけ方だと感じた。

 

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明治維新を知りたければまずこの本を読め!/司馬遼太郎著『竜馬がゆく』(1)(文春文庫)

司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』を再々読している。今回は読書日記を書くつもりで舐めるように読んでいるせいか、新たな発見がいくつもあった。以前は、竜馬が繊細で複雑な性格の持ち主として描かれていることに気が付かなかった。キャラクターに魅力があるからこそ、この小説は面白いのだろう。

そして、自信を持って言える。明治維新を知りたければまずこの本から読むべし、と。

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司馬遼太郎著『竜馬がゆく』(1)(文春文庫)

ざっくりとした内容

坂本竜馬土佐藩郷士の家に生まれた。泣き虫の寝小便たれで手のかかる子供だったが、剣術道場に通い出すと徐々に頭角を現してくる。「多少金はかかるが、江戸の千葉道場で修行させて、ゆくゆくは城下で剣術道場を開かせよう。これは楽しみになってきた」という父や兄たちの期待を一身に背負い、竜馬は江戸へ旅立つ。

*千葉道場でも竜馬はぐんぐんと剣を上達させ、ついには塾頭にまでのぼりつめる。そんな最中、黒船が下田にやってきて江戸は大騒ぎとなる。外国の脅威から身を守らなければならないというわけで、各藩も警備隊の強化に必死だ。竜馬も警備隊の剣術教官として駆り出されるようになるのだが、「教え方がうまい!」となかなかの評判になる。

*当時の若者は「攘夷思想」を振りかざすのが流行だった。藩邸で同室になった竜馬の親友・武市半平太は強烈な攘夷思想家であり、人望があるのでシンパも集めていたが、竜馬は剣術が面白くて思想どころではない。当時の感覚からいえば、かなりダサい人間となっていた。竜馬よ、このままでいいのか?

かんたんレビュー

竜馬がゆく』は、色っぽい遊女が誘惑してきたり、泥棒が竜馬の子分になって大活躍したりと「痛快娯楽時代劇」の要素がふんだんに入っているので、読み物として単純に面白い。同時に、幕末の時代背景を学ぶテキストとして読むこともできる。『竜馬がゆく』を読んでおけば、明治維新の概略がわかる。

第1巻では当時の時代背景として、ふたつの重要な対立軸が紹介される。

まず、土佐藩における「上士vs郷士」という対立軸だ。土佐は戦国時代、長宗我部家の国であり、土佐郷士はみな長宗我部家の家来だった。ところが、長宗我部家が味方した西軍は関ケ原の戦いで敗北。代わりに土佐にやってきたのは、遠州掛川からやってきた山内一豊だ。「上士」とは勝ち組・山内一豊の家来の子孫であり、「郷士」とは負け組・長宗我部家の家来の子孫なのだ。「上士」は「郷士」よりも身分が高く、同じ宿にすら泊まることすら許されない。「郷士」の不満はふつふつとたまり、今にも爆発しそうなエネルギーを蓄えている。坂本竜馬郷士のひとりだ。

二つ目は、江戸幕府vs朝廷という対立軸だ。江戸幕府はペリーに開国を迫られ、いやいや開国する。一方、朝廷のトップである孝明天皇は病的なほどの外国嫌悪症だ。「やむを得ない開国主義」の幕府と「外国大嫌い」の朝廷はどのようなバトルを展開するのだろうか。

一方、竜馬の思想は今のところあやふやなままだ。「どちらかといえば攘夷かな?だって世間はそんな流れだし」くらいの考えしか持たず、剣にひたすら夢中になっている。しかし漠然とした不安は抱いている。黒船来航で脅されても、幕府は大名に頼るばかりで「旗本八万騎」という直属の軍隊を使わない。使えないのだ。カネがなくて、旗本は食うや食わずの生活を強いられており、兵器や家来を揃えて出陣できるだけの力がないのだ。

竜馬は「大丈夫かな、これ」とモヤモヤしながらも、何をするべきかわからない。納得するまで動かない遅咲きの男、それが坂本竜馬なのだった。

(第2巻に続く。) 

 

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