こだいらぽんたの読書日記

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人は立場によって生き、立場によって死ぬ。司馬遼太郎著 『峠』(上)

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司馬遼太郎著『峠』<上>(新潮文庫

幕末維新の時代に生きた越後長岡藩家老・河井継之助の名を、本書で知ったという人は少なくないはずだ。河井継之助は、幕府がほろびることを誰よりも早く予見していた。

そこで、彼は必死に長岡藩生き残りの方策を模索した。幕府とは無関係に、長岡藩は自主独立の道の体制を取らなければならない。彼はそのために周到な用意をした。『峠』は、河井継之助の長岡藩生き残りに命を懸けた半生を描いた物語だ。

武士の世は終わる。封建社会は崩れる。彼が長州藩薩摩藩に生まれていたなら、きっと幕府体制を一掃し、新しい統一国家を作るために奔走していただろう。その方がどれほど楽だったか。

だが、継之助にはそれができなかった。なぜなら、長岡藩は徳川の譜代大名だからだ。

外様大名とはちがい、譜代大名とは徳川家の番頭なのである。その番頭の家来であるこの継之助が、西国出身の志士どものように、あっさり徳川家を否定することはできない。

(それは断乎としてできない)

というのが、継之助を自分自身をしばりつけている重要な拘束であった。士たる者が自分で自分をしばりあげているこの拘束こそ、かれ自身を一個の漢たらしめてゆくもっとも大事な条件であると継之助はおもっている。その拘束のなかで人間は懸命に可能性を見出し、見出すために周囲と血みどろになってたたかわねばならない、とおもっている。(上巻・P144-145)

 「人は立場によって生き、立場によって死ぬ。それしかなく、そうあるべきだ」。

継之助によって繰り返されるこの言葉は、「本物の侍とはどういうものか」ということを考えさせられる。

 

 『峠』の上巻は、井伊直弼大老に就任し、安政の大獄という思想弾圧を行った1858年に始まる。このとき、河井継之助は江戸に私費留学する書生にすぎない。河井家は120石取り程度の家格であり、たいした出世が望めるわけでもない。しかし、継之助は近い将来必ず訪れるであろう長岡藩の危機を救うのは自分だと信じている。

 

1859年。ロシア帝国使節のムラヴィヨフ伯爵が軍艦7隻を従えて品川にやってくる。「わがロシア帝国は、清国に要求して、黒竜江一帯の土地を割譲することに成功した」とムラヴィヨフは言う。「だから、日本も樺太を出せ」。

いわゆる、恫喝外交だ。ロシアもさすがにヨーロッパに対しては居直り強盗のようなことはしない。欧米の列強諸国は日本を完全になめてかかっているのだ。幕府はこれといった対応もできず、おろおろするばかりだ。

 

これに腹をたてた攘夷志士たちが、横浜でロシア人を殺害してしまう事件が起きる。

このまま戦争になるのだろうか?幕府は数藩に対し、横浜警備を命じた。継之助にも横浜警備の警備隊長になれ、との藩命が下る。しかし、継之助の元に集まったのは、鎧兜に身を包み、火縄銃を持った藩士たちだ。ロシアの軍艦の前に、鎧兜と火縄銃でどうやって戦うというのだろう。継之助は「ああ、日本も長岡藩も滅びる」という感慨を持たざるを得ない。

(負けだ)

継之助は胸中、さけびたい。英国その他の欧州の列強に対してである。(中略)継之助は、佐久間象山や古賀謹一郎から産業革命のことをきいた。欧州で蒸気機関が発明され、その後ここ半世紀ほどのあいだに欧州の機械文明が飛躍し、国力が充実し、列強がたがいに刺戟しあって兵器を進歩させ、東洋とのあいだに大きな差がついた。

その間、日本はねむっていた。そのため、

    いざ、戦さ。

といえば、このかっこうである。三百年前の武者の亡霊が出てきたようではないか。

日本と欧州の差は産業革命でついた、それだけである。その点に追いつくだけでいい、と継之助はかねがね思っている。おもっているものの一介の藩士の身ではごまめの歯ぎしりで、どうすることもできない。(上巻・P147)

ロシアは日本と商売がしたいだけだ。それなのに、おどしを真にうけて兵を出し、日本の時代遅れの装備を見せて異人たちのあなどりを受けるほど 馬鹿馬鹿しいことはない。

結局、ロシアと日本は戦争をすることはなかった。ロシアが譲歩したからだ。「被害者の墓をたてよ。犯人を処罰せよ。日本はこの不始末をあやまれ。」どういうわけか、ロシアが出した条件はこれだけだった。樺太をよこせと無茶な要求をしたり、一方では温情主義に出たり、ロシアもつかみどころのない国だ。

 

この後、継之助は江戸から諸国遊歴の旅に出る。主に藩の財政を立て直した人物に会いに行くためだ。この頃は情報が限られているため、なにか学ぼうと思ったらその人物に会いに行くしかない。特に、美濃の大垣藩筆頭家老の小原鉄心備中松山山田方谷にはおおいに得るところがあったようだ。

長崎にも足をのばしているが、ここで継之助はショックを受ける。長崎では、西国の雄藩のほとんどがこの開港場に藩邸、つまり貿易出張所を持っているのだ。かれらは外国と直接貿易を行なっているのだろう。雄藩に金があるはずだ。ところが、東日本の藩の藩邸はひとつもない。「このままでは立ち遅れる」と、継之助は血の凍るような思いをし、自分たちは横浜を活用しなければならないと考えるのだった。

 

横浜といえば、継之助は横浜の商館で、ファブルブランドというスイス人の商人と懇意になっている。そこで、スイス連邦という国が「永世中立国」という珍しい国であることを知る。(上巻・P187)継之助はこの点にするどく反応するが、これは今後、継之助が描く長岡藩生き残りのかたちとして、重要な伏線になってくるだろう。

 

1860年3月3日。大老井伊直弼桜田門外で水戸と薩摩浪士に殺害された。それ以来、京都は無政府状態に陥ってしまった。あっさりと大老が暗殺されてしまうのだから、幕府なんて実はたいしたことがない。幕府の権威は地に落ちたのだ。京都には攘夷志士たちが横行し、佐幕派の公卿たちを脅し、その家来を殺し、幕府の奉行所役人にリンチを加える始末だ。

1862年。とうとう幕府は、強大な警察軍をここに置くことにした。会津藩を移駐させ、藩主松平容保を「京都守護職」という新設の職につかせ、京都の治安を守らせようとした。その京都守護職の下に、従来の役職である京都所司代がいる。この役目に長岡藩の藩主・牧野忠恭(ただゆき)が任命されてしまったのである。

 

「大変なことになった」と諸国遊歴の旅から帰ってきた継之助は、藩公は京都所司代を辞任するべきであるとの意見書を出す。もちろんこれは家老を怒らせるばかりとなったが、この意見書の話がめぐりめぐって忠恭の耳に入る。筋の通った意見を欲しがっていた藩公は、継之助を呼び寄せ、この件について相談するようになるのである。

それでも京都所司代をすぐには辞めなかった忠恭だったが、のちに過激公卿たちの身勝手なふるまいに耐え切れなくなり、「継之助。やはり、わしは辞めたい」と悲鳴をあげてしまう。「辞任運動はそのほうにまかせるゆえ、よきにはからえ」との命令に、継之助は直ちに実行にとりかかる。

 

皮肉にも、河井継之助の初めての功績は、自分の殿様を官職から辞任させることだった。この件で継之助はおおいに腕を認められることになる。

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