こだいらぽんたの読書日記

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幕府側にも討幕派にもつかない。河井継之助の「長岡藩独立国構想」の準備がここに始まる。司馬遼太郎著 『峠』(中)

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司馬遼太郎著『峠』<中>(新潮文庫

諸国遊歴の旅から帰った河井継之助は、自分の殿様(牧野忠恭)の京都所司代職を辞めさせたことで大いに手腕を認められた。継之助はそこから異数の出世をする。外様奉行から郡奉行となり、後に町奉行を兼任。長岡藩の行政すべてを担当するようになる。

 

継之助は大胆な藩政改革に着手する。幕末の激動の時代を生き抜くには、長岡藩を「独立公国」にするしかない。幕府にも薩長にも組しない独立国だ。それには金がほしい。藩庫を潤沢にして長岡藩の軍隊を欧米における最新式のものに仕立て上げ、行く末は産業も機械化したい。継之助は長岡藩という小さな藩の生き残りをかけて、あらゆる手を尽くそうとした。

まず、賄賂や賭博を禁止した。博徒たちは「寄せ場」と呼ばれる場所に収容され、学者からきちんとした教育を受けることになった。食事も出るし、門限を破らない限りでは外出も自由だ。遵法精神に筋を通そうとしたのだが、社会のはみ出し者に懲罰ではなく教育を施す施設はこの時代珍しかったという。

娼妓も廃止した。富商や豪農が妾をもつのに使う金を藩庫に収めさせたいからだ。カネのあるところから出させる、というのはまっとうな政策だ。領内の遊郭も廃業させられた。しかし継之助のうまいところは、すぐに娼妓廃止を行わず、何年か噂を流し続けてから実行したところだ。みんな心の準備ができているから「ああそうか」としか思わなかった。

江戸にある3つの藩邸の蔵に眠っているお宝も整理し、外国人に片っ端から売り払ってしまう。長岡藩にはどんどんカネがたまった。それも銀ではなく、金のみを貯めていった。それを元手に最新式の兵器を西洋人からがんがん買い込んだ。中でも出色のものはガットリング砲だろう。機関銃が登場したのは第一次世界大戦のときだが、ガットリング砲は機関銃の先祖にあたる。当時まだ極東に3門しか来ていなかったガットリング砲を継之助はエドワルド・スネルという商人から2門も手に入れるのである。

着々と進められていく継之助の「長岡藩独立国構想」。京にも江戸にも属せず、日本の大名を脱して「長岡国」として世界の列強と国交を結びたい。継之助は年寄役を経て、家老にまで上り詰める。長岡藩の運命は継之助に託されることになる。

 

1867年10月。長岡藩に急報が舞い込む。将軍徳川慶喜大政奉還をしたらしい、というのだ。越後は京から遠く、情報が確かかどうかわからない。京に使いをやったところ、果たして情報は本当だった。いずれ幕府側と倒幕側で戦争が起こるだろう。そのとき、長岡藩はどうふるまうべきか。牧野家を守るために「勝てそうな側」につくか。それとも譜代大名としての義理を重んじ、幕府側について戦うべきか。長岡藩はふたつの意見の間で大揺れに揺れる。

長岡藩の藩主は牧野忠恭(ただゆき)から息子の忠訓(ただのり)に代わっている。隠居の忠恭は「牧野家らしく」、譜代大名として徳川家に対する義理を果たしたいと継之助に訴える。これは継之助の肚の中の独立構想と反するのだが、牧野家の家来である継之助が藩主の意向を否定することはできない。そこで、継之助は決する。

「上方(京・大阪)へ参りましょう」

目的はふたつある。ひとつは徳川家への形式的な義理立てができることだ。もうひとつは風雲の現場に入り、現場の実態を偵察することだ。継之助は藩主の忠訓とともに、少人数で上方に行くことになる。

 

大政奉還をめぐる駆け引きはかなり面白い。倒幕をもくろむ薩摩藩長州藩を相手に、徳川慶喜は政権を放りだしてしまうという奇策に打って出た。「政権は朝廷に預けますから、あとはどうぞご勝手に」。しかし1万石の小世帯にすぎない朝廷には日本国の政治はできない。幕府が政権を奉還してしまえば、薩長も幕府を倒す名目がなくなってしまう。しかも徳川家はかんじんの領地や諸侯への指揮権、領民の支配権はそのまま持っているのである。つまり幕府直轄領400万石と譜代大名の主人たる位置は失っていないのだ。徳川慶喜には小御所会議においてこの時勢を自ら収拾する自信を持っていた。政権を投げ出し、その功によって朝廷に乗り込み、彼の手で新政府を樹立し中央集権国家を実現させる。徳川の実力基盤もあるし、そのためのフランスの援助も取り付けていた。最後の将軍はまれにみる名君だったのだ。

 

しかし、薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)や大久保一蔵(大久保利通)はその手には乗らず次の手を打った。慶喜を朝廷によばす、すべての重要会議からしめ出してしまったのである。新政府のメンバーによる小御所会議では「徳川慶喜は罪人である」という解釈がほどこされ、「だから、官位を剥奪し直轄領を返納させろ。従わなければ朝敵として討て」というすさまじい結論が出された。新政府には金がない。政府としてやっていくためには、徳川の土地や金や軍艦その他すべてが必要なのだ。理屈も何もあったものではない。

 

ところが慶喜はその挑発に乗らない。慶喜天皇至上主義である水戸史観の洗礼を受けている水戸家の出身だ。この挑発に乗って戦争を始めれば、幼帝(後の明治帝)を手中にする薩長側に「朝敵」として討たれる口実を与えてしまう。慶喜は京を離れ大坂に移り、ひたすら恭順の道を取ろうとした。

 

挑発に乗らない徳川慶喜に、倒幕の大謀主である西郷吉之助は焦りはじめていた。相手が激昂して剣を抜かなければ討伐はできない。剣を抜くのは徳川側からでなくてはならず、王が自ら剣を抜くわけにはいかないのだ。そこで西郷は天狗党の生き残りの浪士たちに命じて江戸を混乱させる。放火、盗賊、打ちこわしなんでもいい。薩摩が彼らの背後にあることを露骨に示せば、旗本どもが激昂し、ついには幕府が武力行使せざるを得ないだろうという目論見だ。

結局、江戸にいる勘定奉行小栗上野介忠順が庄内藩に命じ、江戸にある薩摩の藩邸を焼き討ちしてしまう。こうして幕府は西郷の思うつぼにはまってしまうのである。

 

継之助一行は京に着いた。京は徳川氏の家来である長岡藩にとって敵地である。薩長がどんな言いがかりをつけてくるかわからない。

継之助は藩主の意向を伝えるために、京都御所に参内し、切腹の覚悟で建白書を出す。内容は「薩長を追い出し、徳川慶喜の名誉を回復してほしい」というものだ。ところが継之助の決死の覚悟とは裏腹に、公卿たちは「確かに読んだ。わかった」といった暖簾に腕押しのような反応を返す。たいした決意も見せない公卿の態度に継之助は心の中で毒づくが、藩主忠訓は「徳川家に義理立てできただけでもいい」と満足するのである。

その後、大目付から長岡藩は大坂玉津橋の警備を言い渡される。戦略的にあまり意味のない場所だ。おそらく戦意がないとみなされたのだろう。

 

1868年1月3日。鳥羽街道で徳川軍と薩摩軍との小競り合いがきっかけで、幕府側と倒幕側との本格的な戦闘の火ぶたが切って落とされる。鳥羽伏見の戦いだ。会津藩新選組や見廻組はよく戦ったが、彦根藩や淀藩や藤堂藩はさっさと討幕側に寝返ってしまう。徐々に形勢は薩長側に有利に働き、1月5日に淀川畔に錦の御旗があがる。

慶喜はこれを聞いて驚いた。この交戦中に京の朝廷が薩長土に官軍の称を与えたことに対する驚きだった。朝敵になることが何よりも恐ろしかった慶喜は、大阪城内の主戦派の目をかいくぐって江戸へと逃げてしまう。1月6日の夜のことだ。

1月7日。継之助のもとにも慶喜が江戸へ逃げたという一報が入る。この時の継之助の決断は早かった。「江戸へ逃げる」だ。ぐずぐずしていては、薩長勢の怒涛のなかに巻き込まれてしまう。彼らは藩主を連れて、決死の大坂脱出を企てるのである。

 

こうして、継之助らは江戸の長岡藩邸にしばしとどまることになる。もう一刻の猶予もできない。長岡藩の自主独立するための準備には、ますます拍車がかかった。

江戸ではいくさのために米価が下がるという現象が起きていた。江戸には多くの大名屋敷あり米を蓄えているが、江戸に見切りをつけた大名たちが米を市内に放出したのだ。継之助は江戸で米を買い占め、箱館(函館)で売って、そのカネを長岡に送った。

横浜では最新式のミニエー銃を買い込み、それを長岡にどしどし送った。藩士には実費でミニエー銃を払い下げ、洋式調練も敢行した。

 

江戸では、会津藩桑名藩、老中小笠原壱岐守の藩である唐津藩、東北北越の諸藩が集まり「大槌屋会合」というものが行われる。官軍と戦うのか。それとも恭順の意を示すのか。各藩の代表は「どうしよう、どうしよう」と言ってばかりでちっともまとまらない。彼らは互いに他藩の顔色を見るために来ており、それによって自藩のゆき方を見定めようと考えているにすぎない。

継之助は長岡藩の代表として発言する。「箱根の嶮(けん)で官軍を食い止め、徳川家海軍を駿河に入海させ、東海道を進んでくる官軍を陸海両面から攻撃すれば勝てる。肝心なのはわれらが一致結束できるかどうかだ」と。会津藩桑名藩はもちろん喜んだが、他の藩は覚悟が定まらない。相変わらず「どうしよう、どうしよう」が続く。ついに継之助は立ち上がる。

「最後にうけたまわりたい。官軍に対して抗するのかどうか」

満座に、声がなかった。

継之助はうなずき、

「さればわが藩はひきあげる。このうえはわが藩は独りその封境を守るのみだ」

と言い、そのまま廊下に出、階段を降り、表に出てしまった。(中巻・P521)

 もう、江戸に用はない。藩邸に戻った継之助は、藩主忠訓に大槌屋会合のあらましを報告し、長岡に帰国することを勧め了承を得る。

継之助の「長岡藩独立国構想」はどうなるのか。藩庫にカネはあふれんばかりにある。最新式の兵器も整えた。準備は万端である。

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