こだいらぽんたの読書日記

古典多めの読書日記です。名作映画100選もあります。

生きることは何かを失い続けるだけの日々のことなのか?/村上春樹著『1973年のピンボール』(講談社文庫)

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の続編だ。

時は流れて1973年。主人公の「僕」は大学卒業後、友人と翻訳を扱う会社を立ち上げた。仕事はうまくいっている。一方、親友の「鼠」は大学中退後もずっと地元に残っている。状況は違えど、「僕」と「鼠」は似たような苦しみを抱えている。生きていくことは、何かを失い続けるだけの日々のことなのだろうか。

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村上春樹著『1973年のピンボール』(講談社文庫)

ざっくりとした内容

*「僕」は、大学一年生の時恋人の直子が自殺するという辛い出来事に遭遇する。彼女を愛していた「僕」はふさぎこみ、大学にも行かず、毎日ゲームセンターに通いつめ、ピンボールに取りつかれたようになる。型は、3フリッパーの「スペースシップ」だ。ところがゲームセンターは突然取り壊され、「僕」は暗い心を抱えたまま街に放り出される。1970年の冬のことだった。直子の死によって「僕」の時は止まったままだ。

*1973年9月。大学を卒業した「僕」は、友人と共に翻訳専門の小さな事務所を立ち上げていた。会社はうまく回り、平和な日々が続く。しかし、「僕」は繰り返しの毎日に虚しさを感じ始めていた。相変わらず時は止まったまま、心は乾ききったままだ。そんな時、あの時夢中になったピンボール・マシーンが「僕」を呼んでいるような気がした。3フリッパーの「スペースシップ」。「僕」は「彼女」を捜すことに必死になる。

*「鼠」は大学中退後、ジェイズ・バーに通いつめ、孤独な中国人マスターのジェイを前にビールを飲む日々を送っている。大学を辞めてからずっと、時間は止まったままで、相変わらず何ひとつ得ることのない日々が続く。25年間の人生で、自分はどこで間違えたのか?付き合っていた彼女は一瞬優しさのようなものを思い出させてくれたが、そんな彼女とも一方的に別れてしまう「鼠」。そしてジェイにも、この街を出ていくので、バーには再び来ないことを伝えるのだった。

 

かんたんレビュー

この小説は、東京に暮らす「僕」と、地元に暮らす「鼠」とのパラレル構造で進行する。彼らはどちらも、似たような苦しみを抱えている。繰り返しの毎日に疲れ切っており、心は乾ききっている。しかし、ふたりが迎えた結末は全く違ったものとなる。

 

生きるということは何かを失い続けることなのだろうか。

小説の冒頭から匂わされるのは「死」のイメージだ。「僕」の恋人・直子の家の設計者は肺炎で死んだ。井戸を掘ってくれた職人は電車にひかれて死んだ。そして直子も死んでしまったことが明かされる。(前作『風の歌を聴け』から、直子は自殺したことがわかる。)このように、いきなり「死」の話が連続で淡々と語られる。生き続けるということは、大切なものを失い、大切な人も失うことだ。

「鼠」は「失い続けること」の虚無感に耐えられない。どうせ無くなってしまうものに愛情は持てない、という考え方だ。人も街もどんどん変わっていこうとするが、変わり続けることにどんな意味があるというのだろうか。「鼠」は「どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程にすぎない」と言い放つ。

「だから俺はそんな風に嬉々として無に向かおうとする連中にひとかけらの愛情も好意も持てなかった。・・・この街にもね」(P143)

永遠に存在するものなんてあり得ない。ここから来る虚無感が「鼠」を打ちのめす。変化するものから取り残され、「鼠」は居場所がなくなってしまう。

 

一方、「僕」はどうか。

「僕」は自分で立ち上げた会社も上手く行き、幸せな日々を送っているように見える。しかし、心の中は「鼠」とたいして変わらない。同じ毎日の繰り返しに疲れ切っている。時間の感覚だってない。だから何も感じないようにしている。仕事が面白いとかつまらないとか、寂しいとか、何かを欲しいとか、そういったものを感じないようにしている。感じないようにすることが「僕」の生きる手段だからだ。

ところが、そんな「僕」の前に不思議な「救世主」が現れる。双子の女性だ。彼女たちは、ある朝目を覚ました「僕」の両隣で寝ていたのだ。名前もなければ見わけもつかない。この日から「僕」は双子と一緒に暮らすようになった。彼女たちは「僕」の心のエネルギーの供給源が枯れかけていることを指摘する。電話の配電盤のように、寿命が来たら取り替えなくてはならない。最後に彼女たちのおかげで「僕」は怒りの感情までも取り戻す。水までもたっぷり飲まされる。(ジェイに「水を飲め」と忠告された「鼠」は最後まで飲むことができなかったのに。)ずっと自分の暗い闇と向き合っていた「僕」だったが、ようやく「出口」を見いだした時、彼女たちとの別れが来る。

そして、何よりも「僕」とピンボールとの再会は実に感動的で、一番のクライマックスだ。

「僕」が捜しに捜しまわった3フリッパーの「スペースシップ」だが、この台はあるピンボールマニアによって冷凍倉庫に保管されていたことが判明する。マニアが所有するピンボール・マシーンはなんと計78台だ。「僕」が結局この冷凍倉庫に入ることができるのだが、寒々とした部屋には78台のピンボール・マシーンが並んでいた。ただ並んでいるだけのピンボール・マシーンは、まるで「死」を感じさせる。しかし、電源を入れた時、78台のピンボール・マシーンは生き生きとよみがえるのだ。

「僕」の捜していた3フリッパーの「スペースシップ」は列の奥にあった。「僕」はピンボール・マシーンに語りかける。まるで、死んでしまった直子に語りかけるかのように。自分たちの過ごしたはかない日々は消えてしまった。しかし、それでも残っているものは確かにある。

僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその緩い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光ともに歩むだろう。(P166)

私はこのくだりを何度も読んだ。

生きるということは、絶えず何かを失い続けることだ。大切な人との別れもそのひとつだろう。死んだ人の存在や想いは、確かに存在したのに、いつかは消えてなくなってしまう。生きている人の記憶にかろうじてとどまるものの、時が立てば思い出すことさえ困難になる。

それでも残っている淡い光のようなものは確かにある。「僕」は3フリッパーの「スペースシップ」との対話でそれを確認したのだ。世の中には決して失われないものがある。「僕」はまさに永遠にそっくりな何かを見たのだ。

 

ピンボールはリプレイ、リプレイ、リプレイ・・・で、特に得るものは何もない。コインだの時間だのと失うものはたくさんある。まるで「僕」が飽き飽きしていた繰り返しの毎日そのものだ。そんなピンボールとの再会で、たいしてドラマチックでもない退屈な毎日をどのように生きるのか、失ったものとどのように寄り添って生きるのか、「僕」は覚悟を決めることができた。

「再び倉庫を横切り、階段を上がり、電灯のスイッチを切って扉を後手に閉めるまでの長い時間、僕は後ろを振り向かなかった。一度も振り向かなかった」(P167)

その覚悟のほどがわかろうというものだ。実に力強い決着のつけ方だと感じた。

 

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