こだいらぽんたの読書日記

古典多めの読書日記です。名作映画100選もあります。

他者とのつながりを失った「僕」が救済される物語/村上春樹著『羊をめぐる冒険』(下)(講談社文庫)

自分の存在は他者という鏡を通して確かめることができる。他人がいるからこそ、自分がいる。ところが他者との関わりが全く失われてしまったとき、人は自分自身の存在を確かめることはできない。

主人公の「僕」は自分自身を映し出す鏡をすべて失ってしまった。妻を失い、故郷を失い、仕事も失い、友も失った。他者とのつながりを失ってしまった時、自分の存在はどこでどうやって確かめたらいいのだろう。

羊をめぐる冒険』は自分の存在を見失ってしまった「僕」が救済される物語だ。だからこそ、この小説はまぎれもなく「僕」の物語であり、まぎれもなく青春小説なのだ。

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村上春樹著『羊をめぐる冒険』(下)(講談社文庫)

ざっくりとした内容

*背中に星印を背負った謎の「羊」を探すため、「僕」とガールフレンドは北海道・札幌へとやってきた。そして羊が写りこんでいる写真の場所が「いるかホテル」の支配人の父親がかつて所有していた土地であることを突き止める。「羊博士」と呼ばれている支配人の父親は、1936年満州の洞窟で「羊」に会い、「羊」に体の中に入られたという。そして42年前、「羊」は羊博士の中から去ってしまった。「羊抜け」の状態になると思念のみが体の中を渦巻いて放出できない地獄の状態になるという。

*謎の「羊」が写りこんでいる牧場は、今はある金持ちが別荘として所有しているらしい。この「ある金持ち」というのは「僕」の親友である鼠の父親であることに僕は気づく。そこで僕たちは、牧場を目指して「十二滝町」という地の果てにあるような辺鄙な町へと向かう。そこはかつて津軽からやってきた農民たちによって開拓された土地であったが、現在は寂れ果てて死んだような田舎町となっていた。

*ようやく十二滝町に到着した「僕」とガールフレンド。牧場はそこからさらに車で三時間走った山の上だ。緬羊飼育場の管理人にジープで連れて行ってもらうが、昨夜の雨で地盤が弱くなっているためジープは途中で通れなくなってしまう。仕方なく「僕」と彼女はジープを降り、徒歩で別荘に向かうことにした。ところが何かがおかしい。別荘の手前には不吉で嫌な予感のするカーブ。別荘に入ったとたん襲われる不思議な感覚。いったい彼らは謎の「羊」に辿り着けるのだろうか?

ぽんたの独断レビュー

上巻のレビューでは7つの疑問点を出しておいた。それに答えるかたちでレビューを進めたい。

1、「羊」とはなにか。

人間は心の奥底にグロテスクなものを持っている。他人を支配したいとか、他人の物を奪って自分のものにしたいとか、異様に嫉妬深かったりとか、人間の心の奥底をじっと見つめれば誰だって必ずこういった「悪」を抱えているものだ。それを解き放つと大変なことになる。人間の心の奥底に潜む「悪」の思念を解き放つ「何か」がたまたま「羊」の形をとって現れたのだろう。しかし「羊」そのものは善でも悪でもない。「悪」はあくまで人間の心の中にある。

2、「耳の女の子」とは何者か。

彼女の存在で「僕」はどれだけ癒されたかわからない。彼女が「僕」を特別扱いするのは「あなたが私を求めたから」だという。他者を求めることが「僕」にはまだできるのだ。そして「僕」が「自分自身の半分でしか生きていない」ことも言い当てる。「耳の女の子」は「僕」を救済される入口まで連れて行ったところで突然姿を消してしまう。ここまでがこの小説で与えられた彼女の役割だ。彼女は「僕」を入口まで連れていくことはできても、救済することまではできない。「僕」自身を救済するのは、あくまで「僕」自身にしかできないからだ。

3、小説冒頭に出てくる「誰とでも寝ちゃう女の子」とは何者か。

「誰とでも寝ちゃう女の子」も、他人とコミットできない「僕」の病を見抜いた子だ。誰とでも寝る理由を尋ねられると、彼女は「私はいろんな人を知りたいのかもしれない。あるいは私にとっての世界の成り立ちかたのようなものをね」と語っている。彼女は男と寝ることによって自分と世界のつながりを確かめている。そんな彼女だからこそ「僕」と寝ることで、「僕」が何かに悩んでいることに気づくのだ。「あなたはいったい何を抱え込んでいるの?」と。「私を殺したいと思ったことある?」と訊ねたのも、他人を殺すことによって自分の存在を確かめたいと思ったことがあるかという問いかけだろう。

4、「僕」にとって妻はどういう存在か。

「僕」は妻と離婚する。しかし「僕」が誰よりも関わり合いを持ちたかったのが妻だったはずだ。彼らは生活を営むうえでの「役割分担」はうまくいった。しかし機能的なものだけでは夫婦はうまくいかない。結婚生活を続けるには互いの嫌な部分を徹底的にさらけ出す必要がある。「僕」はそこに気づかない。せめて妻とのセックスの数を記録しておけばよかったと途方もないことを考える始末だ。「僕に必要なものは正確に数字であらわせるリアリティーなのだ」と。しかし他者との関係を数字で表すことはできないのだ。

5、「僕」の故郷の消滅はこの話全体にどう関わってくるのか。

「僕」の故郷の海は埋め立てられ、街は消滅しつつある。自分のルーツが消え去ることは自分の存在を確かめる何かがまたひとつ消滅してしまうことを示している。

しかしまだ埋め立てられていない50メートル分の砂浜と「ジェイズ・バー」が残っていることが「僕」の救いとなる。最後に鼠と「僕」を「ジェイズ・バー」の共同経営者にしてほしいとジェイに頼んだのは、「ジェイズ・バー」こそが彼らに残された自己の存在を証明する最後の砦のようなものだからだろう。50メートル分の砂浜の前で「僕」が涙を流すラスト・シーンも見逃せない。

6、「鼠」と「羊」の関わりは何か。

「羊」自体は善でも悪でも何でもなく、人間の奥底に潜む「何か」を呼び覚ます装置にしか過ぎない。鼠も「僕」と同じく、他者との関わりを持つことができないことで自分自身の存在を確かめることができない病に落ち込んでいた。(だから鼠の彼女は、「僕」と鼠の雰囲気が似ていると言い当てたのだ。)他者を鏡として使うことができないなら、自分の心の深いところに下りて行って、暗闇をじっと覗き込むしかない。ところが鼠は自分の心の深淵を覗き込んで、自らの持つグロテスクさに気づいてしまう。それを開放すると自分が自分でなくなってしまうことを鼠は知っていた。だからこそ、鼠の自分自身の存在を証明する方法は死ぬことしかなかった。「我々はどうやら同じ材料から全くべつのものを作り上げてしまったようだね」と鼠は「僕」に語りかけている。鼠は「死」によって自分自身の存在を確かめ、僕は「生」によって自分自身の存在を確かめたのだ。

7、「僕」の飼い猫に名前がついた意味は?

飼い猫に名前をつけないなんて、この一件だけでも「僕」の病が相当深刻だったことがわかろうというものだ。人は身の回りのものに名前をつけることで、世界とのつながりを持つ。飼い猫はその他大勢の猫とは違った存在なのだから。猫が「いわし」と名付けられたことで、「僕」と猫、ひいては世界との距離はぐんと縮まったはずだ。

最後に:「羊男」とは?

十二滝町の歴史の話も興味深い。自分自身の存在がどういうものかを確認したければ、いきおい祖先が辿ってきた歴史にまでさかのぼらなければならない。歴史の延長線上に自分たちは立っているからだ。

小説の中にでてくる「羊男」は、十二滝町を作り上げたアイヌの青年を想起させる。「羊男」は「戦争に行きたくなかった」から隠れて暮らすことにしたのだという。日露戦争で息子を奪われた悲しみと、羊に対する愛情が人間の形となって「僕」の前に現れたのではないだろうか。手にやけどのあとがあるあたりはイナゴの襲撃から身を守るために火を焚いた話を連想させるし、何よりも人間的なものと動物的なものが混じり合っているところがいかにもアイヌらしい。

 

さまざまな謎について語っていると尽きることがないから不思議だ。

次に『羊をめぐる冒険』を読むときはどのような発見があるだろうか。楽しみだ。

 

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