こだいらぽんたの読書日記

古典多めの読書日記です。名作映画100選もあります。

自分の中のさまざまなものが失われていくこと。それは死と同意義である。/村上春樹著『ノルウェイの森』(上巻)

村上春樹著『ノルウェイの森』(上巻)(講談社文庫)

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ざっくりとした内容

ハンブルク空港に着陸しようとしている飛行機のスピーカーからBGM「ノルウェイの森」が流れるところから話は始まる。この曲は現在37歳の「僕」に自分が失ってきた多くのものを呼び起こさせる曲なのだ。いつの間にか薄れてしまう死者の記憶は僕の心の奥底を揺り動かす。「起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を」。だから僕はそれを理解するために文章を書くのだ。

*1966年春。「僕」が直子に会ったのは高校二年生の春だった。直子はキズキの恋人であり、キズキは「僕」の親友であり、三人はいつも一緒にいた。しかし5月にキズキは突然自殺してしまう。理由は誰にも分らなかった。

*1968年春。「僕」は高校卒業後東京の私立大学を受験し、故郷の神戸を離れて学生寮に入っていた。誰も知らない場所に行きたかったのだ。そんな新生活を始めた東京で「僕」は偶然直子に会う。彼女も東京の私立大学に進学していたのだ。それから「僕」は直子とちょくちょく会うようになる。直子は「何か言おうとしても見当違いの言葉しか浮かんでこない」という病で苦しんでいた。

*1969年4月。直子が20歳の誕生日を迎えた日、彼女の病は顕著な形で現れる。彼女の口からことばがあふれ出して止まらなくなり、しかし本当に言いたいことにはいつまでたっても触れることができない。「僕」は泣きじゃくる直子を抱きしめ肉体関係を結ぶが、彼女が処女であったことに驚く。直子は恋人のキズキと寝ていなかったのだ。直子はこの日以来「僕」の目の前から姿を消す。彼女はアパートを引き払っていた。何度手紙を書いても彼女から返事がくることはなかった。

*1969年7月。突然、直子から手紙が来る。彼女は大学を休学して京都の山奥にある療養所に入ることになったという。「僕」は哀しい気持ちで手紙を読み返す。体の中の何かが欠落し、その空洞を埋められない。そんな時に「僕」の目の前に現れたのは、たまたま同じ講義を取っていた生命力あふれる女性・小林緑だった。緑は「僕」を食事に誘うようになり、ふたりは親しくなる。

*1969年秋。直子から「僕」のもとに、京都の療養所に会いに来てほしいと手紙がくる。病状が落ち着き、そろそろ外部の人との接触が必要だと医者からアドバイスを受けたからだという。「僕」が向かった療養所には、直子のほかに、直子のルームメイトのレイコさんがいた。

ぽんたの独断レビュー

村上春樹の小説には、「僕」の一人称が突然「俺」になる場面がある。「俺」で語られているところは常に注意して読んでいる。ひとりの人間の心の奥底に潜む実体が叫んでいる場面のように思えるからだ。

小説の冒頭では死者のことを忘れつつある37歳の「僕」が登場する。「僕」は生きている世界にいるので、つい死者のことや失ったものを「過ぎ去った過去」のように考えてしまう。しかし死者の記憶を呼び覚ますのが「ノルウェイの森」のBGMだ。この音楽が「起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を」と「僕」の深層心理を揺さぶるのだ。

 

「僕」が高校二年生のとき、唯一の友だった親友のキズキは突然自殺してしまう。「僕」はキズキの死を境にして「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と考えるようになる。これはどういう意味だろうか。

村上春樹の重要なテーマのひとつは喪失だ。生きていくことは何かを失い続けることだ。失うものは若さだけではない。少年期に感じたある種のあこがれだとか、分かり合えると思っていた人との関係だとか、そういったものだ。故郷の開発が進んで、故郷を失ったと感じることもあるかもしれない。自分の中のさまざまなものが死んでいく。死は「向こう側」のものではなく、すでに生の一部として存在しているのだ。唯一の友人であるキズキを失った「僕」は、自分の一部が死んでしまった。その欠落を抱えながら「僕」は生きていくことになる。「僕」だけでなく、この小説の登場人物は何らかの欠落を抱えながら生きている。すでに死んでしまった自分の一部を内包しながら生きているのだ。

 

村上春樹のもうひとつの重要なテーマは「他者との関わり」だ。「僕」は心を閉ざしてしまい、他者とうまく関わることができない。人を愛したこともない。「たぶん僕の心には固い殻のようなものがあって、そこをつき抜けて中に入ってくるものはとても限られているんだと思う」と「僕」は直子に語っている。直子は「何か言おうとしても見当違いの言葉しか浮かんでこない」という病を抱えているが、それは「僕」も同じなのだ。自分の心の奥底に潜む思念を言葉にできず、他人と感情を分かち合うことができない。しかし自分の殻の中にこもってやり過ごす術を知っているので、「病」に見えないだけだ。「僕」に救いは訪れるのだろうか。

 

一方、学生運動に対する村上春樹の立場がはっきり出ている場面にはかなり興味を引かれた。

ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。(中略)彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方がなかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。(P101)

学生たちのまくビラに対しても「説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を駆りたてる力もなかった」「この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った」(P121)と、容赦ない。村上春樹がどのような気持ちで学生運動を見つめていたかうかがい知れるような一節だ。

(下巻に続く) 

 

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