こだいらぽんたの読書日記

古典多めの読書日記です。名作映画100選もあります。

忘れたい過去も苦い思い出も、自分自身の一部として存在している。/村上春樹著『ノルウェイの森』(下巻)

村上春樹著『ノルウェイの森』(下巻)(講談社文庫)

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ざっくりとした内容

*直子の療養所から帰ってきた「僕」は、現実世界に戻って来れない不思議な感覚を覚えていた。そんな「僕」を現実世界に引き戻してくれたのは緑だった。ある日曜日、緑に誘われて「僕」は入院中の緑の父親の元へ訪れることとなる。ぐったりとベッドに横たわり口も満足にきけない緑の父親はもう長くないようだった。そんな父親と「僕」は一時心を通わせる。

*「僕」の寮に住む先輩、永沢は外務省に難なく合格する。東大に入ることも女の子を引っかけて寝ることも彼にとってはただのゲームにしか過ぎない。ある日、永沢の就職祝いという名目で「僕」は食事会に誘われる。食事会には永沢の恋人であるハツミさんも同席していた。永沢の女漁りに傷ついているハツミさんは、永沢と激しい口論をする。

*1969年11月。直子から手紙がくる。「夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます」「この手紙も力をふりしぼって書いています」という内容だった。1969年12月、「僕」は再び直子の療養所を訪れる。直子はずっと無口になっていた。「僕」は直子に「ここを出て一緒に暮らそう」と提案する。1970年学年末のテストが終わり、「僕」は直子と暮らすための一軒家を借りる。しかしその後、何度手紙を書いても直子から返事が来ることはなかった。

*1970年4月。直子の面倒をみてくれているルームメイトのレイコさんから突然手紙がくる。直子の病状が悪化しているという内容だった。幻聴が始まり日常生活も困難な状態だという。直子が快方に向かっていると思っていた「僕」は、奈落の底に突き落とされたような激しいショックを受ける。

*「僕」は緑をも失いかけていた。緑は「僕」が自分の心を全く開かないことに怒り傷つき、「僕」から離れてしまったのだ。緑がいなくなって、初めて緑を深く愛していたことに気づく「僕」。しかし一方で直子のことも深く愛している。このふたつは嘘偽りのない感情だった。

ぽんたの独断レビュー

この小説のラストのレイコさんの台詞がとても好きだ。「ああ、村上春樹はこれが言いたかったんだな」ということに思い当たり、ぎゅっと胸が熱くなった。

「死」とは何だろうか。「死」は生物学的な死のみではない。生きることで失い続ける多くのもの。それはすべて「死」と同意義なのだ。

たとえば学校や会社で裏切られたりいじめられたり、親から心ないことばを投げつけられて怒り傷つき恥ずかしい思いをしたことはないだろうか。逆に自分が加害者となって人を傷つけるようなひどいふるまいをしたことはないだろうか。そんな時、人は自分の大切な「何か」が抜け落ちてしまう。ぽっかりと穴があき、その空洞は二度と埋まらない。そんな欠落を抱えて生きることは「死」を抱えて生きることと同じなのだ。

でも我々は生き続けなければならない。ではどうすればいいのだろうか。嫌なことは忘れる、というのもひとつの手段だろう。しかし『ノルウェイの森』で提示されるのは、辛い過去を決して忘れることなく欠落を抱えたまま生きる、という生き方だ。誰だって欠落という「死」を内包したまま生きている。忘れてはいけない。忘れたふりをしてもいけない。忘れたい過去も苦い思い出も、それは紛れもなく自分自身の一部だからだ。

主人公の「僕」は、自分が緑を深く愛していることに気づき混乱する。死の世界に引きずり込まれそうな直子と違い、緑は「生きる世界」の人間だ。「僕」が緑に強く惹かれるのもそこに理由がある。しかし「僕」は直子のことも深く愛しているし、責任も感じている。緑に強く惹かれることは、直子を途中で放り出すようなものだ。

「僕」はこういう自分自身のことが許せない。そんな気持ちをレイコさんに正直に打ち明ける。レイコさんの答えはこうだ。

「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしのつかないことになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい」(P281-282)

直子は精神の病が高じて自殺してしまった。「僕」には直子を救うことができなかったのだ。後悔の念にさいなまれる「僕」に対するレイコさんのことばは示唆に富んでいる。

直子を裏切ってしまったかもしれないという「僕」の痛みは、まぎれもなく「僕」の一部だ。だから無理に忘れるのではなく、その痛みもまた自分自身の一部として内包したまま生きるべきだというのだ。親友のキズキが死んだとき「僕」の一部は死んでしまった。直子が死んで、「僕」の一部はまたしても死の世界に引きずり込まれた。「僕」はこれからもずっと「死」という名の欠落を抱えて生きていくことになるだろう。

一方、死者は時に生きている者同士を結び付けてくれることもある。「僕」が緑の死んだ父親のことに思いを巡らすシーンが何度かあるが、「僕」が死者を何度も思い出すことで「僕」と緑は結び付けられていく。緑の父親は実に大きな役割を果たしている。

数多くの欠落を抱え、数多くの死者とともに生きる。それが生き続けるということだ。まさに「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」のだ。

 

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