こだいらぽんたの読書日記

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井筒俊彦『イスラーム文化ーその根底にあるものー』(岩波文庫)

井筒俊彦イスラーム文化ーその根底にあるものー」(岩波文庫

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井筒先生の解説は本当にわかりやすい。イスラームについて知りたかったら、この本は超おすすめだ。
イスラーム教はキリスト教徒よく似ているといわれる。しかしこの本を読んで強く感じたのは、このふたつ、実は全く性格の異なる宗教ではないだろうかということだ。

1.「悪はどこから来るのか?」をやはりイスラームも考えていた。
イスラーム教では、キリスト教のように人間を神の子などと考えることはしない。神と人間の関係は「主人と奴隷」の関係だという。何をされようが、ただひたすら神の思いのまま。人間が主体的に努力して救済に至ろうという考えは成立しない。イスラームも語源的に「一切を相手に任せること」という意味であり、ムスリムも「絶対帰依者」という意味なのだそうだ。人間の内在する力の働きは全くない。時間も空間も、その瞬間瞬間を神が創造しているのだから、因果律さえも存在しないというのだから、その他力本願ぶりは徹底している。


ところが、やっぱり出てくるのは「それなら悪はどこから来るのか?」問題だ。人間が無力で自由意志を持たないなら、この世の悪事はすべて神の責任なのか?
「自分では全然悪を為す能力がない人間に強制的に悪をさせておいて、しかもこれを罰するというのでは、いくら何でもひどすぎる」(77ページ)と、初期イスラーム神学で大問題になったというくだりがあったが、そりゃそうだろう。

アウグスティヌスは「善の欠如」でこの問題を決着させた。
しかし、イスラームがどのように決着させたのか、この本では言及されていない。

2.原罪の観念がないイスラーム
人間は見栄っ張りだ。それに嫉妬深い。とにかく、自分を他人よりも良く見せようとする。また、話を大きくふくらませて、事実とは異なる形で他人に伝えたがる癖も持っている。どんな局面でも自分だけは損をしないように振舞おうとする。人から聞いたことをあたかも自分が考えたことかのように言う癖もある。

人間が逃れようとしても逃れられない悪い癖。これが「原罪」だ。
ところがイスラーム教は原罪の観念がないという。アダムとイヴの失楽園物語は「コーラン」の中でも出てくる。ふたりが知恵の木の実を食べたため、神の怒りを買い、楽園を追い出されるところは「旧約聖書」と同じだ。しかし、アッラーの神は言いつけを守らなかった人間どもを許してしまうのだ。

「『しかし(後に)アーダムは主から(特別のお情けの)言葉を頂戴し、主は御心を直して彼に向かい給うた。まことに主はよく思い直し給う。主は限りなく慈悲深いお方」(二章、三五節)』・・・(中略)・・・こうして人間の本性は元来、清浄で汚れなきものであるとイスラームは考えます。原罪によって本性的に汚されてはいないのですから、苦しみによる浄化は必要としません」(134ページ)

「現実の人間はたしかに悪に染まっており、堕落して汚れたものではあるけれども、それは偶然的な汚れであって、本質的な汚れではない。人間の力で直していけるものである」(137ページ)

 人間に「原罪がない」ことなどあり得るのだろうか。嫉妬心も、他人のものを欲しがったり羨ましがったりする気持ちも、見栄っ張りな気持ちも「これっぽっちも」持ち合わせていない状態にまでなることなど、本当にあるのだろうか。人間のどうしようもない部分を、努力で「ましな状態」にすることはできても、「直す」ことなど可能なのだろうか。

しかし、イスラームは人間の努力でなんとかなる問題なのだと説く。明るいといえば明るい。

3.スンニー派シーア派は中身が全然違う
青木裕司 世界史B講義の実況中継』(語学春秋社)によれば、シーア派は「ムハンマドの血を受け継いだ人々にしか指導者としての権威は認めない」という宗派であり、スンニー派(「実況中継」では「スンナ派」)は「ムハンマドの血を受け継いでいなくても指導者として受け入れる」という宗派だ。
だが『イスラーム文化』を読むと、このふたつの違いは血統がどうのこうのといったこと以上のものがある。スンニー派シーア派は、中身が全く違うのだ。ひとことで言えば、スンニー派顕教シーア派密教だ。シーア派にとって「コーラン」は暗号だ。暗号は解読されなければならない。その秘密の意味を知ろうとするのが密教的だというのだ。神も自分の外側ではなく、自分の内部を見つめることで見つけようとする。
ところで、アラビア半島もイランも一緒くたにしている人は少なくないだろう。なんとなくあの辺は「中東」なんだなと認識している人もいる。ところが、少しでも世界史の教科書を読んでみると、アラブとペルシャは全く違う文脈で登場する。多数派のスンニー派はアラブの宗教、少数派のシーア派ペルシャの宗教だ。このふたつを「イスラーム教」でまとめてしまうにはあまりにも違いすぎる。この本を読んでそんな感想を抱いた。

 

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