こだいらぽんたの読書日記

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この世に悪は実在しない。あるのは「善の欠如」である。/アウグスティヌス著『告白Ⅱ』(山田晶訳/中公文庫)

アウグスティヌス著『告白Ⅱ』(山田晶訳/中公文庫)

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アウグスティヌス北アフリカのタガステに生まれた。カルタゴに遊学し、マニ教に入信。その後、修辞学をカルタゴやローマで教え、そして修辞学教授としてミラノへと渡った。ミラノで出会った司教アンブロシウスの影響で、カトリックの教えに目覚めていく。


1.マニ教カトリック教会への攻撃に対して反論したアウグスティヌス

マニ教は「神がこの世を創造したのなら、この世の悪を創造したのも神なのか?」と、カトリック教会を非難した。この疑問に対するアウグスティヌスの答えはこうだ。

「悪なるものは、つきつめていけば完全な無になってしまうような、善の欠如にほかならない」(「告白Ⅰ」121~122ページ)

悪なんてものはこの世にはない。あるのは「善の欠如」だ。

この世で神が作ったものはすべて善である。悪に実体があるわけではなく、肉体を持つ「悪魔」など存在しない。悪は人間の「自由意志」から生まれるのだ、とアウグスティヌスは言う。

「私は、不義とは何かとたずねてみて、それが実在するものではなく、むしろ至高の実在である神、あなたからそむいて、もっとも低いものへと落ちてゆき、内なる自己を投げすてて、外部に向かってふくれあがってゆく転倒した意思にほかならない、ということを悟りました」(「告白Ⅱ」54ページ)

 
マニ教は「人間が神の似姿として作られたとしたら、神には髪や爪があるということか?」とも攻撃している。しかし、アウグスティヌスは「人間が神の似姿として作られた」とは、実在する肉体の意味ではなく人間の精神の意味であると反論する。

「(動物とは違って)人間は問いを発し、神の見えないところを造られたものを通じて悟り、あきらかに見ることができます」(238ページ「告白Ⅱ」)

「神の似姿」とは肉体が似ているのではなく精神が似ているという意味である。 これはアウグスティヌスが師匠であるアンブロシウスから学んだ教えでもある。

2.「告白」の一番有名な場面
マニ教から離れ、カトリックの真理を知るようになったアウグスティヌスは自らの生活のすべてを神に捧げようとする。しかし、それは単なる「決心」にすぎない。心の声に真っ正直になってみると、どこかで抵抗の声が聴こえるのだ。信じていないものを信じていると言ってはいけないのだ。この状態に悩んで悩み抜いて、ついに庭で大泣きしてしまうアウグスティヌス。すると、隣の家から声が聞こえてくる。

「隣の家から、くりかえしうたうような調子で、少年か少女か知りませんが、『とれ、よめ。とれ、よめ』という声が聞こえたのです。(中略)私はどっとあふれでる涙をおさえて立ちあがりました。これは聖書をひらいて、最初に目にとまった章を読めとの神の命令にちがいないと解釈したのです」(137~138ページ「告白Ⅱ」)

 そこでアウグスティヌスは聖書を手に取り、パウロ書簡に書かれたことばを必死に読む。「とれ、よめ」がアウグスティヌスにとってまさしく神のことばとなるのだ。
山田晶氏の注釈によれば、「『とれ、よめ』というのは文学的虚構なんじゃないか」とか「空耳なんじゃないか」とか、歴史家の中ではいろいろ言われているらしい。しかし空耳だろうが何だろうが、アウグスティヌスがそのように聞こえたのなら、それが真実なのだ。与えられたことばは受け取った人のものになる。
信じているかいるかどうか自分でもわからないあやふやなものを、軽々しく「信じている」と言ってはいけない。その信念のもと、真っ正直に自分の心の底を見つめた人間に対して与えられた言葉だろうと私は感じている。

「名前は知られているがあまり読まれていない古典」に挑戦するのは疲れるが、非常に楽しい。ネットであらすじを調べても読んだことにはならない。原典にあたることを何よりも大事にしたい。

(最終巻「告白Ⅲ」に続く)

 

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